地 獄 の 接 吻 (60)

 

 窓一つなく、蝋燭の灯だけが頼りの暗い地下室におりますと、時間の感覚が不確かになるばかりか、病弱なわたくしにとっては余りにも過酷でした。
身に纏っているものは浴衣一枚、寒さを凌げるのは毛布だけという、底冷えのする、湿気を含んだ空気が淀む、陰気で劣悪な環境は、日に日にわたくしの体を衰弱させていき、高熱にうなされ、幻聴や幻視に悩まされ、死の淵を彷徨っても、花司家は、ただの一度足りとも、何の対処も施してくれなかったのです。
 食事は日に二回、朝と夜に家令が運んで来ました。
ところがある日、家令が喪服を着て、地下室に降りて来たことがあったのです。
誰の葬儀があったのかと質問しますと、それまで何を尋ねても一切口を開かなかった家令が、
「お前の葬儀だよ」
と嘲笑するかのように言い放ったのです。
わたくしは、とうとう花司家によって抹殺されたのだという思いが沸き起こり、目の前が真っ白になりました。
花司家が、病で夭折した薄命の長子の葬儀を執り行ったことによって、地下牢で幽閉され、絶望のまま朽ち果てようとしているわたくしは、生きながらにして死人と化したのです。
かつては温厚で礼儀正しく、人当たりも柔らかい印象であった家令は、嘲るような眼差しで見下ろしながら、冷徹な薄ら笑いを浮かべ、手の平を返したように豹変した態度で尚も畳み掛けました。
「お前は旦那様の御計らいによって、若くして死んだ花司家の跡取りとして、斯界の連中の記憶に残ることになった。有難いとは思わんか?実際のお前のザマは何だ。旦那様を深く失望させたばかりか、花司家の名誉に深く傷を付けようとした。お前はもう花司家の人間ではない。わかるか?お前はもはや誰でもないのだ。誰にも看取られることなく、此処で虫けらのように死んでいくのだ」
奥歯を噛み締めて、じっと家令の言葉に耳を傾けておりましたが、心の底に複雑に絡まったまま堆積していた悲しみが一気に押し寄せ、はち切れんばかりになりますと、やがてそれは嗚咽に変わり、お腹の底から湧き上がって来る冷たい絶望感に、咽喉が灼けそうになりました。
無力感、喪失感、諦め・・・どれとも言い切れない苦しみが胸を圧迫して、茫然自失になり、心を干上がらせていくのがわかりました。
こうして、わたくしは、自分が誰であるのかさえ、わからなくなってしまうのではないかと感じたのです。
お姉様は、わたくしが生きていることをご存知なのでしょうか。いえ、もしご存知なら、とっくに助けに来てくれているはずです。せめてお姉様にだけは、まだ生きていることを知らせなければ・・・。
わたくしのその思いが、生きる望みを与えてくれたのでした。
そして、混沌に漂っていた、怒りや憎しみといった思念の断片が、突如、奔流のようにわたくしの中に流れ込んできて、喚起する激しい感情に、心の目が開かれたようになったのです。
それは、悲しみと絶望が、怒りと憎しみで掻き消されていくことを意味していました。
地下室では、わたくしの存在など意に介さず、老婆が異様な読経を間断なく響かせていましたが、この時になって、初めて静寂が訪れたのです。祭壇に向かっていた老婆は、突然振り返り、膝を抱えて壁に寄り掛かっていたわたくしを直視しました。
値踏みするような眼が、爛々と狂喜に高ぶり始めたかと思いますと、歯のない口を醜く歪めて、声も立てずに笑い出したのです。
「お前、此処にいたのかえ?」
初めてまともに話し掛けてきた、老婆の言葉の意味が、全くわかりませんでしたので、返答に窮していますと、ペタペタと床の上を這って近付いて来て、眼を大きく見開きながら、低く掠れた声で、厳かに言いました。
「お前が見えたぞい。怒れ、怒れ。命を食らい、悪の結界を張る穢れた獣共に。絶望を蛮勇(ばんゆう)で上塗りするんじゃ。奪われれば奪い殺さば殺せ。復讐の血を大地に染み渡らせるんじゃ」
その言葉には有無を言わせない響きがあり、わたくしの意識を闇から引き剥がす力が漲っておりました。狂気に囚われたい誘惑に駆られたのは、この時が最初だったのです。
人を殺せば、いずれその業は己に返ってくるでしょう。流された血の量だけ死者が存在し、建てられた墓場の数だけ悲嘆に沈む人が存在します。
しかし、昏(くら)い感情は憎悪と怨恨を呼んで、復讐の舞台を生み出していき、命の略奪の連鎖は歯車のように繰り返されるのだということ、そして、その歯車と一度でも噛み合えば、そこから抜け出すのは容易ではないということを、わたくしはのちに、思い知ることになるのです。
 老婆は尚も、罵倒と憤怒の塊を投げつけるかの如く、皺だらけの咽喉を蠢かせて、呪詛の唸りを上げ続けました。
他者への憎しみだけが横溢し、無数の皺に埋没しているような老婆の顔を真っ直ぐ見据えながら、黙って聞いておりました。
「暗き闇の底から来(きた)るお前の魂は、この欲望の荒廃の虚空を駆逐する清冽なる魂じゃ。さあもっと怒れ。獣を一匹残らず叩き潰すんじゃ」
 来る日も来る日も、絶えず呪いの言葉を口にしておりました。
わたくしは、一切言葉を挟みませんでしたが、不思議なことに、近寄り難く、距離を保っていたはずの老婆に対して、少しずつ心を許すようになっていったのです。
老婆は、わたくしの中で、歯止めが効かないほどに膨張し始めた憎悪の波を感知して、いつかは炎のように燃え盛り、心が真っ黒に塗り替えられるのを、手薬煉(てぐすね)引いて心待ちにしている様子が、ありありと感じられ、復讐の機会を望んでいる眼が、赤々と、血のように煮え滾っておりました。
かつては、自らがその機会を窺っていたのかもしれません。
でも、月日は残酷にも過ぎ去ってしまい、機会を逸したまま、今の歳を迎えてしまったのかもしれないと思いますと、わたくしはまたしても奇妙な感情を抱いたのです。
己に愛を与えなかった世界への復讐を成し遂げられないまま、じめじめとした暗い地下牢で、気の遠くなるほどの長い時を過ごし、気も狂わんばかりになった挙句の果てに、もはや憎むべき相手が誰であるのかさえ、忘れてしまったかのような、しかし、深い怨恨の情だけは抱き続けている、哀れな老婆に代わって、花司家に思い知らせてやりたいとの強い思いが、湧き出てきたのです。
 わたくしはその思いに突き動かされるかのように、仄かに杉の香りが漂う十六段の階段をゆっくりと上がりますと、冷たい鉄の扉に顔を近付けました。
片目を瞑って、鉄の扉を支える蝶番に顔を当て、僅かな視界に目を凝らしますと、細い隙間から、上の様子が微かに窺えました。
そして、最上段に座り込んだまま、家令が朝食を持ってやって来るのを待ったのです。
 家令がやって来たのは、それから何分後のことだったでしょうか、時間の感覚を失っていたので、明確ではありませんが、恐らく、ものの十分も経っていなかったのではないかと思います。
入り口の鍵を開ける音が聞こえ、コツコツという足音が静寂を破り、やがて、重い鉄の扉がゆっくりと開かれると、地下室の闇が徐々に溶かされていきました。
そして、扉の先に家令の足元が見えた瞬間、勢い良く体を滑り込ませたわたくしは、あっという間に、鬱蒼と生い茂る樹木の中へと駆け抜けたのです。
後方から、声高に何かを叫んでいる家令が追い駆けて来たのに気付いて、ぬかるんだ土に足を取られそうになりながらも、無我夢中でひたすら走り続けました。
強風が幹を鳴らし、乱立している枝が激しく揺れ、ざわざわと騒ぐ梢の間から、無数の雨粒が落ちて来て、髪を濡らし頬を伝っていくのが感じられました。まるで渇いた自分を潤していくように。
しかしこの時ばかりは、命の雫を、少しずつ奪われていくようでした。
雷雲を連れて来る風が荒れ狂う暗鬱な空の下で、周りの木々の枝を縫うように、前へ前へと脱兎の如く走り続け、一度足を取られて転んでは、泥だらけになった体を擦って這いつくばりながら、懸命に逃げたのです。
そして、喘ぐように息を切らして辿り着いた林の先に、威容を誇る、懐かしくも呪われた我が家がありました。
赤紫の石で覆われた煉瓦造りの洋館は、あの頃とは何一つ変わっていないようでした。
でも、わたくしの人生は、その間に、大きく狂わされてしまったのです。
「お姉様!お姉様!」
わたくしは、あらん限りの声を張り上げて叫びました。
お姉様だけには、何としても知らせたいと思っていたのです。
わたくしはここにいますお姉様。まだ生きているのです。
「お姉様!お姉様!」
左手に孔雀小屋のある角を右に折れると玄関が見えましたが、激しい雨のために、雫が絶え間なく視界に入って、見るもの全てが、みるみるうちにぼやけてきました。
目に入った水滴を拭い、息を切らせ、水を跳ね上げ、ずぶ濡れになりながら、二十八間(五十メートル)先の玄関に向かって、必死に走り続けたのです。
そして、どこまで行っても出口が無いような、不安と恐怖心に駆られていたわたくしの目前に、ぐんぐん迫ってきた玄関扉に、あともう少しで手が届くという所まで来た時、初めて一筋の光明を見たような気がしました。
掴みたいのに届かないというもどかしさと、自由の中に解放されたという壮快な心地が、同時に去来して、一瞬にして様々な感情の渦が凝縮された瞬間にはもう、目前に迫ったと確信した光明が、残酷にも、遥か彼方へと遠ざかっていくのが感じられたのです。
ドアノブに手を伸ばしかけたその時に、追い駆けて来た家令に、傲然と背後から捻じ伏せられたわたくしは、雨に濡れた石畳の上へ、前のめりに倒されて、抑え込まれたのです。
硬い地面に頭を打ち、朦朧とした意識の中、両腕を後ろ手に縛られながら痛みに堪えかねていますと、玄関から姿を現した盛輝を、おぼろげながら視界に捉えたのでした。
激しく憤っていた盛輝が、捲くし立てるように浴びせかけてきた、ありとあらゆる口汚い罵声の嵐は、身も心も疲弊してボロボロになったわたくしの体に、刃のように深く突き刺さったのです。
そして、両脇を抱えられて力なく立ち上がり、再びあの恐ろしい地下室へと連れ戻されようとした時、ふと二階の貴紗蘭の部屋に目をやりますと、出窓のカーテンが、微かに揺れているのに気付いたのでした。
何ということでしょう。お姉様は、こんな薄汚い、醜い形(なり)をしたわたくしを、得体の知れない闖入者だと思われたのでしょうか。
それとも、本当は何もかもご存知でありながら、どうすることも出来ない己の無力さに、ただ悲嘆に暮れるばかりなのでありましょうか。
わたくしは後ろ髪を引かれる思いで、これが永遠の別れになるかもしれないと感じつつ、貴紗蘭の部屋の窓をじっと見つめておりました。
再び囚われの身となったわたくしは、深い深い失意のどん底に突き落とされて、やがて訪れるであろう凄惨な仕打ちの予感に、身を震わせていたのです。

 

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