地 獄 の 接 吻 (59) 部屋から出ることを許されないまま、数日が経過したある日のことでした。 突然やって来た盛輝は、無言のまま、わたくしの手を強く引っ張りますと、廊下に出て、螺旋階段を下り、広間からアーチ形の仕切り壁を抜け、玄関ホールに向かったのです。 妙な不安が過(よ)ぎったとでも申しましょうか、何処へ連れ出すつもりなのかと訝しみ、思わず足を止めてしまったのです。 何日も部屋に閉じ篭められていましたので、新鮮な外気を吸いながら、庭園の花々や草木の間を縫って歩きたいという気持ちもあったのですが、それを思い止まらせる、何か好からぬ前兆を、意識下で察知していたに違いありません。 ふと、人の気配を感じて背後に目を向けますと、そこにはいつの間にか、妹の摩耶が立っていました。 唇には嘲弄にも似た笑みが刻まれ、人を見下すような、蔑んだ光を宿した瞳で睨み据えていたかと思いますと、汚らわしい物でも見るかのように、顔を醜く歪めたのです。 「摩耶さん。向こうへ行ってなさい」 盛輝がドアノブに手を掛けながら注意した後、摩耶はわたくしに向かって、意地の悪い声で、 「ふん、ケダモノ!出て行って!」 と吐き捨てると、さっと身を翻して廊下を駆け抜けて行きました。 屈辱感を噛みしめながら、苦々しい思いで、摩耶の後ろ姿を見つめておりますと、盛輝が腕に力を込めて、 「立ち止まるな、歩け!」 と頭ごなしに怒声を浴びせながら、ステンドグラスが嵌め込まれた玄関扉の向こうへと、引っ張って行きました。 表門へと続く車道は歩かずに、列柱廊が建ち並ぶ石畳の車寄せを過ぎ、花壇が途切れた辺り、右手に孔雀小屋のある角を左に折れ、裏手に廻り込むと、ケヤキや樫や銀杏など、枝の絡まる種々の樹木の高い梢が、盛んに風で揺れている林の中へと、突き進んで行ったのです。 何が目的なのかと不安になっておりましたが、訊くに訊けないまま、身体を屈め、片方の手で枝を薙ぎ払うようにして掻き分け、薄暗い、鬱蒼と生い茂る樹木の闇の中、湿り気を帯びた地面を歩き続けました。 もっと幼かった頃、林の中に入ろうとしたことが一度だけあったのですが、盛輝に見つかって酷く叱られてからというもの、名状し難い薄気味の悪さに、近寄ろうとさえしなかったのです。 木々の梢の隙間から漏れる日光が、朽葉色と土色の足下に斑模様を描き、やがて、切り開かれた草地の奥に突如として現れた、見たこともない、スレート葺きの、小さな木造平屋を浮かび上がらせました。 風が枝を揺らし、葉を擦り、空を漂う暗鬱な不協和音となって響いているだけの、時の流れが止まっているかのような静謐のただ中に、それはあったのです。 鼻腔を過ぎる、湿り気を孕んだじめじめとした風の芳香に、他でもない、ただならぬものの気配を感じて、わたくしを取り囲む全ての物が、一つの魔物と化して、一切を呑み込もうとしているような、そんな言い知れぬ恐怖を抱きました。 板壁には緑色の苔が筋模様を作り、黒い鎧戸はしっかりと閉ざされ、扉には大きな錠前がぶら下がっておりましたが、盛輝が鍵を開けるとそこは、むっとするような湿気に包まれた、墨のような、真っ暗な深い闇で、わたくしはその奥へ、強引に引っ張り込まれて行ったのです。 恐らく何度も訪れているのでしょう、盛輝は点火したマッチを使い、右も左もわからない暗闇の中、馴れた手付きで、傍らにある百匁蝋燭に火を点けて、燭台を手にしますと、頼りない仄かな焔によって、廃墟のような五間四方(九メートル四方)の、板敷きのがらんとした部屋の内部が、おどろおどろしく浮かび上がりました。 そして、蝋燭の灯火の輪が照らし出した中央の床に、頑丈そうな錠前が掛かっている鉄の扉が視界に入った瞬間、これからわたくしの身に降り掛かろうとしている悪夢の予感を、はっきりと感じ取ることが出来たのです。 必死に逃げようともがくわたくしの腕を、爪が喰い込むほどに強く握った盛輝は、もう一方の手で、真鍮製の大きな鍵を使って錠前を外し、錆びた蝶番が静寂を破って耳障りな音を響かせると、重々しく扉が開かれました。 すると、地下から、微かに、読経しているような声が、響いてきたのです。 先に階段を降りろと指示されたわたくしは、灯りがおぼろげに見える地下へ、一歩一歩ゆっくりと、踏み外さないように下って行きましたが、徐々に大きくなってくる読経の声が、かなり年老いた女のようであることがわかってきました。 やがて、漆喰で塗り固められた土牢のような地下室が、目の前に現れたかと思いますと、燭台の蝋燭の火に照らされた壁に、人間の影が映って大きく揺らめいているのが見えたのです。 そして、階段をまさに降り切ろうとした所で、凛と張り詰めた、人を威圧するかのような厳かな読経の声の主が、白い法衣を身に纏い、白髪が腰まで垂れた老婆だということがわかったのでした。 高さ二尺(六十センチ)ほどの、大蛇が巻きついた仏の木彫像と、燈明が備えられている祭壇に向かって、両の手を天にかざしながら、意味不明なお経を唱える老婆の姿は、鬼気迫る異様さに満ちておりました。 わたくしたちが降りて来たことに気付かないのか、何かが憑依しているかのように、一心不乱に祈り続けておりましたが、盛輝が声を掛けた瞬間、その声はピタリと止み、ゆっくりと振り返ったのです。 黒ずんだ肌に、骨と皮という老いさらばえた顔には、歯のない窪んだ口元が、久しく光を宿していない黄色みを帯びた眼や鋭い鷲鼻と相俟って、険しい形相を露わにしておりました。 そして、皺だらけの手で数珠を押し揉みながら、探るように両眼を細めますと、ぎろりとわたくしを睨みつけ、深い縦皺が刻まれた口を開いたのです。 「誰かいるのかえ」 低く唸るような声には、肌を刺すような敵意が感じられ、恐ろしくなったわたくしは、その場からすぐにでも逃げ出したい心境でした。 ところが盛輝は、侮蔑を含んだ表情で老婆を見下ろしながら、わたくしの首根っこを掴んで、 「お前を此処に置いていく」 と言ったのです。 そして、 「大人しくしていろよ」 と憎らしそうに吐き捨てました。 じめじめとした、肌にまとわり付く湿気が不快な暗い地下室に留まりたくはないと訴えましたが、盛輝は卑劣にも、得体の知れない老婆と二人きりにさせるつもりだったのです。 「嫌です。どうか此処から出して下さい」 自然と溢れ出た涙が、頬から顎へと伝って、やがて冷たい床の上に落ちていきました。 「ならぬ。此処にいろ」 わたくしは突き飛ばされてその場に倒れ込みました。 そして、追い縋るように、階段を駆け上がって行く盛輝に向かって手を伸ばしましたが、背中に込められた無言の拒絶を感じ、地上への扉が開かれ、やがては閉じられていく重々しい音を、跪いたまま、絶望の内に聞いているしかなかったのです。 何ということでしょう。 生きていく場所ではないこの地下室に置き去りにされ、拭い切れない深い孤独感に襲われたわたくしは、白い漆喰の床の上に伏して、咽喉が嗄(か)れるまで延々と泣き続けました。 これからどうやって生きていけと言うのでしょう。 光の射し込まない牢獄で、死ぬまで虐げられ、幽閉される運命に従わなければならないのでしょうか。 わたくしは、無性に貴紗蘭に会いたくなりました。 今、お姉様はどうしているのでしょう。お姉様は、わたくしが此処に閉じ込められていることをご存知ないのかしら。いえ、ひょっとすると、この地下牢があることすら、お姉さまはご存知ないのかもしれない。 そう思いますと、わたくしは益々、絶望の淵に立たされたような気持ちになったのです。この恐ろしい老婆と共に、誰に気付かれることもなく、冷たい牢の中で死んでいくのは、とても堪えられないことでした。 打ちひしがれているわたくしを射抜くように鋭く見据えている老婆の顔には、ありありと憎しみが浮かんでおり、そして黄色く濁ったその眼の奥に、自分の死が宿っていることを見つけてしまったのです。 一生苦しんで死ぬより、この老婆の手に掛かって、一思いに殺された方が、まだ幸せかもしれないとさえ思いました。 ひっそりと生きてきた者だけが持つ、茫漠とした闇に蝕まれてきたような、尋常ならざる醜悪の気配に、息が詰まりそうになりながらも、そんなことを考えずにはいられなかったのです。 老婆は一体何者で、いつからこの地下室にいるのか、それは何のためであるのかということも、全く見当が付きませんでしたが、長い間、暗闇に閉ざされていることで、年輪のような深い皺が無数に刻まれた顔と、双眸(そうぼう)に具わる鋭い眼光に、著しい精神の変調がくっきりと射影しているように思えてなりませんでした。 虚無と怒りの深遠へと、引き込まれるような感覚さえ覚えたのです。 やがて老婆は、一言も言葉を発することなく、再び祭壇へ向き直ると読経を始め、わたくしは、地下室の隅で、両膝を抱えて蹲(うずくま)りながら、狂気を湛えた、低く重く押し潰すような声音を、千々に乱れた感情を抱えたまま、黙って聞いていたのでした。 戻る 60へ |
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