地 獄 の 接 吻 (56) 南側の門扉の前で立ち竦んでいると、市場からの帰り道であろうか、東の方角から、親子らしい二人の農夫が、大八車(だいはちぐるま)を引いてやって来るのが見えた。 僕が声を掛けようとした矢先、 「父ちゃん。珍しいな。花司さんにお客さんだよ」 と、若い農夫の口から花司の名が出たのを聞いて、僕は驚かずにはいられなかった。 すると年老いた父親は息子に向かって、 「馬鹿。余計なこと言うな」 と叱り付けてそのまま直進しようとしたが、僕はそこで二人を呼び止めたのである。 「お尋ねしますが・・・此処は花司男爵の別邸ですか?」 と尋ねると、立ち止まって答えたのは父親の方だった。 「うん、そう。ずっと前からね」 「誰が住んでいるのかご存知ですか?」 「此処はな、花司男爵の地所だったんだよ。昔は、ここいらの人はみんな、男爵さんの竹薮って呼んでたんだ。ずっと前は九百坪の竹薮しかなかったからな。いつの頃だったか、震災の前に、あの家が建ってね。どうしてこんな田舎に家を建てたのか、誰が住んでいるのかわしは知らんが、女を見たと言っていた奴はいたな」 「そういやあ、俺の息子も見たって言ってたぞ」 今度は若い農夫が答えた。 「そこの蓮華寺に小学校の分教場があった頃、息子が通っていて、女が出入りしているのを見たって言ってたな。何しろ、付き合いを避けてるような家だから、詳しいことはわからんと思うよ。あんたは何しに来たんだい?」 「実は日電新聞の記者なんです。男爵がお亡くなりになってから数年経ちましたが、その後の花司家の実態を取材することになりまして。男爵夫人や二女が、白金台からこちらに移り住んでいるのではないかと思って来てみたんですよ」 「あんたの所の記者かは知らんけど、昔はよく来てたな。最近はめっきり見なくなったがね。まあ、根気強く訪ねてみることだな」 やがて彼らが大八車を引いてその場から離れて行くのを見届けていると、反対の方角から行李を背負った行商人がのろのろと歩いてきた。 通り過ぎて行くまで門の前に佇んでいた僕は、辺りを見渡し、人気のないことを確認すると、意を決して、門扉に足を掛けてよじ登り、向こう側の敷地内へ飛び降りた。 裏手の竹薮がびっしりと空を覆い尽くしているせいで、庭の木立に闇が重く圧し掛かっている。 屋根瓦を除いて全て洋風志向の二階建邸宅は、まるで誰も住んでいないかのようにひっそりとしており、上げ下げ窓は全てカーテンで隙間なく遮られていた。 カラタチの木が塀に沿って柵のように植わり、枝の曲がりくねった落葉樹が点々と、切妻や漆喰塗りの白い壁に影を落としている。 そして、屋根を突き破っている煙突から、煙が微かに立ち昇っているのを目にした時、麗華は、居所を突き止めた僕が門扉を飛び越え、庭の木立の間を歩いていることなど露知らず、暖炉の前で寛いでいるのかもしれないと思った。 アーチの奥にガラスが嵌め込まれた玄関扉があり、一瞬躊躇しつつゆっくり引いてみると、それは音もなく、スウーッと開いたのである。 物音を立てぬようにして中に入ると、左手にガラス戸と内玄関があったが、どちらもカーテンで閉め切られ、内部を窺うことが出来なかった。しかし、取っ手を掴んで手前に引いたガラス戸は施錠されておらず、カーテンを除けた先の玄関ホールには三足のハイヒールが、そして一段高い廊下には白いスリッパが二足、それぞれ綺麗に揃えられていた。 右手の、廊下との境にある角張ったアール・デコのアーチの先が、縦長のステンドグラスの窓から光が差し込んでいる階段になっており、左手には部屋が一つあった。 靴を脱いで廊下を歩きドアを開けてみると、応接室のような部屋の床には孔雀模様の絨毯が敷かれ、テーブルクロスの上に花を活けた花瓶のある中央の丸卓子を囲むように、背がカーブになっている椅子が四脚置かれている。奥には房飾りの付いた長椅子、天井には金属を多用した吊り照明があった。 ドアを閉め、更に廊下を奥へと進むと、ドアが開け放たれた食堂が右手に現れ、足を踏み入れてみると、右側には、前飾りや長押上の装飾がアール・デコ様式の暖炉があり、今まさに、何かが塵となって、燃え尽きようとしているのを目の当たりにして、煙を微かに吐いていた煙突が、この暖炉の火気抜けであることを悟った。 食堂の壁には全て花柄模様の壁紙が貼られ、左手奥にはピアノが置かれていた。中央の重厚な長卓子の左右には、ビロード張りの椅子が三脚ずつあり、その上にはシャンデリアが吊るされている。 恐らく、つい今しがたまで、麗華はここに居たに違いない。暖炉から漂う焦げ臭い匂いの他に、香水の匂いも、僅かに鼻を突いたからである。 食堂を一通り見回した後、再び廊下に出ようとした瞬間、久しく観ていなかった、忘れかけていた記憶の片鱗が、突然蘇ってきて、振り返り様、もう一度、左手の奥へ視線を向けた。 ピアノの上の、花柄の壁紙には似つかわしくない、一枚の油絵が壁に掛かっているのを見て、僕は愕然としてしまったのである。 その絵は間違いなく、震災時の、隅田川での僕の被災体験を描いた「死の彼方」であったのだ。 何ということであろうか。 麗華に対して抱いていた、一切合財のあらゆる嫌疑が、もはや疑う余地のない事実として白日の下に晒され、事件の裏面に隠されていた、どす黒い、穢れた真実の姿が、この時はっきりと、暴かれたのであった。 死体で埋め尽くされた隅田川で、火焔地獄から逃れようとする数人の男女の姿を描いた、炎と闇との対比である「死の彼方」を、半年振りに目にしながら、体中を突き破るような激しい憎悪、身もよじれんばかりの怒りが込み上げてくるのを、感じずにいられなかった。 「麗華!・・・麗華!」 僕は咄嗟に、彼女の名を叫んだ。 きっとこの家の何処かに、身を潜めているに違いない。 そして麗華の姿を視界に捉えようものなら、僕は即座に、彼女をどうにかしてやりたい、怒りに任せて、これまで味わったことのない苦しみを与えてやりたいとの激情に、身も心も、侵食され尽くしていたのである。 「麗華!何処にいる!麗華!」 食堂を出て、玄関脇の階段まで走り抜けた僕は、一旦立ち止まった階上を見上げた後、一気に駆け上がって、上り切った正面の、畳敷の日本間へ入り、それから、右手にある寝室に入ったのだった。 正面奥に窓があり、その左手に置かれている三面姿見が、入り口に佇立する僕を映し出していた。 右手前のベッドには天蓋が備え付けられ、天井を線状にめぐる照明の装飾が、より一層、気品ある雰囲気をもたらしているに違いなかったが、僕にとっては、もはやその何もかもが、見せ掛けだけの、虚飾に満ちた、汚らわしい物にしか見えなかったのである。 白粉やバニシングクリーム、棒口紅などが、無造作に、三面鏡の引き出しから出されたままであること、そして、ギャルソンヌの紫色のワンピースと真紅のチャイナ・ドレスが、ソファーのクッションの上に投げ出されたままであるところを見ると、家を飛び出して行った直後かもしれぬと思った。 そして、ふと、ベッドに視線を移すと、枕元に便箋が重ねて置いてあることに気付いた。 咄嗟に手に取って見ると、そこには、麗華のしたためた僕宛の、幾分取り乱した感のある文章が、びっしりと埋め尽くされていたのである。
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