◆谷中三崎町

 現在の谷中2〜5丁目。昭和42年までの住居表示で、「さんさきちょう」と読みます。

「手紙を受け取った次の日に、早速谷中三崎町にあるモデル斡旋所へ向かったのだが、それも妙な義務感に駆られていたからに過ぎず、徒労に終わるのではとの深い諦念の溜息を落としながらの道のりで足取りは重かったのである」
<第四部(33)より>

 

◆帝国館 / コリーン・ムーア「微笑みの女王」

 帝国館は浅草六区にあった松竹系の活動映画館。元はパノラマ館という名称でした。収容定員は1800人位だったそうです。
 コリーン・ムーアは、特にサイレント期に活躍した女優(1900〜1988)。アメリカでは「フラッパー・Flapper」(日本語で『お転婆』の意味)と呼ばれた、当時人気の高い女優でした。
デビューは1916年の「The Prince of Graustark」。
「微笑みの女王」(1926年)は、彼女47作目の出演作品で、実際に日本で封切りになったのも、作中と同じ年月日、同じ映画館です。

コリーン・ムーア(写真左)。

「南北を横断する興行街を、大勢の人が行き交う雑踏を縫って進んで行くと、金龍館や常盤座が建ち並ぶその向かい側に、コリーン・ムーア主演の「微笑みの女王」の絵看板を掲げた帝国館があり、千八百人の収容人数を超えるのは時間の問題ではないかと思えるほどの、長蛇の列が出来ていたが、松竹館との間の帝国館横丁を折り返して、再び入り口付近にまで伸びている行列は、距離にして優に一町もあるように見えた」
<第四部(39)より>


 

◆ ルドルフ皇太子とマリー・ベッツェラ

 ルドルフ皇太子は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリザベートの子で、マリー・ベッツェラは男爵令嬢で彼の愛人。
2人は、1889年1月、ウィーン郊外のマイヤーリンクの狩猟小屋で死んでいるのを発見されました。これは「マイヤーリンク事件」と呼ばれて今尚語り継がれている謎多き事件です。

「『ねえ・・・ルドルフ皇太子とマリー・ベッツェラがなぜ死んだのかご存知?』
両手で僕の顔を包み込み、心の裏面を探るような視線を向けながら、唐突に尋ねてきた」
<第四部(41)> 

 

◆福島飯坂電車軌道線

 大正13年に開通した福島〜飯坂間(計13駅)の軌道線電車。当時の飯坂駅は、現在の花水坂駅に当たり、飯坂温泉駅まで延長されたのは昭和に入ってからです。

「『この女は、事件のあった当日、最寄の飯坂駅から、福島飯坂電車軌道線に乗って福島駅まで行き、一泊した後、東北本線に乗り、上野駅まで行ったということが、ほぼ判明しました。秦の妻君が、つい先日、飯坂警察署から同じ話を聞いたと言っていましてね。つまり、このルートであったという私らの調査結果と一致したというわけです』」
<第四部(42)より>

 

◆花月園

 新橋で料亭を経営していた平岡廣高が、大正3年、横浜鶴見に開園した遊園地。ダンス・ホールが出来たのは大正9年です。昭和21年に廃園後は、花月園競輪場が作られました。

当時の花月園ダンスホールの様子(写真左)。

「『(中略)つまり昨年の二月頃、花月園のダンスホールで知り合った女だと白状したらしいのです。横浜の永真遊郭街に秦が姿を見せなくなった時期と合致するのは、間違いなく関連がありますね』」
<第四部(42)より>

 

◆深川和倉町 / 油堀川

 深川和倉町は、正式には「深川」の冠称はなく「和倉町」。後年、和倉町1丁目は深川1〜2丁目となり、和倉2丁目は冬木町2丁目になりました。
椀をしまう倉があったことから「椀倉」(わぐら)と呼ばれ、やがて地名となった歴史があるそうです。
 油堀川は、昭和50年に埋め立てられ、現在は首都高速9号深川線になっています。

「去る一月三十日の午前十一時頃、深川和倉町油堀川桟橋で、客を乗せた和倉渡船の船頭が、桟橋から纜(ともづな)を解いて棹(さお)を突くと、川底から女の死体が浮かび上がってきたという」
<第四部(46)>

 

◆帝国図書館

 明治30年に設立。前身は、明治5年に文部省によって設置された書籍館(しょじゃくかん)。上野公園にある、地下1階地上4階建ての庁舎は明治41年に建てられたもので、東京都選定歴史的建造物に指定されています。

当時の閲覧室(写真左)。

「そのまま目黒停車場まで戻って、省線で上野へ行き、帝国図書館で四年前の新聞を、片っ端から調べてみようと思ったのである」
<第四部(53)より>

 

◆華族

 明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した階級です。公卿から列せられた華族を公家華族、諸侯から列せられた華族は武家華族、国家への勲功により華族に加えられたのは勲功華族、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別します。
公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵制度が確立したのは、明治17年(1884年)です。

「上げ巻に気品ある面立ちは清楚な雰囲気をありありと感じさせたものの、世間に晒され続けながら華族の家庭に根を張る旧道徳の鉄鎖に繋がれ、汲々としてきた積年の疲弊が顔に刻み込まれており、内向的で神経質そうな資質さえ窺わせた」
<第四部(53)>

 

◆東京府豊多摩郡杉並町大字天沼

 現在の東京都杉並区天沼。作中、森下が荻窪停車場から天沼に向かう道は、大正期からこの地に住んでいらっしゃる方が書かれた地図を参照にしているので、道順は勿論のこと、医院や水田、雑木並木、火の見櫓や学校などの景観に至るまで、全て事実をありのまま描写しています。
尚、作中に登場する「蓮華寺の裏手にある、竹薮を切り開いて建てたような大きな邸宅」は、実際この場所に、九条男爵が、竹藪を切り開いて賀陽宮(かやのみや)別邸を建てたという、当時の歴史事実を借りています。

「商店会の引き札の裏に、東京府豊多摩郡杉並町大字天沼の住所が走り書きされていた」
<第四部(54)>

 

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