地 獄 の 接 吻 (55) 次の日、名古屋より始発の東海道本線に乗車して、東京駅に着いたのは午後を回った時分であった。 一日東京から離れていたことで、僕の知らぬ間に、何か思いも寄らぬ事件が起こっているのではないかと、漠然とした不安が頭を過(よ)ぎって、駅構内の売店で朝刊を購入し、紙面に目を通したが、活字になっていたのは、一切関わりのない事件ばかりであった。 僕は停車場前で公衆電話函を見つけると、藤城の事務所へ電話を掛けた。 「先生。今どちらにいらっしゃるのですか?」 開口一番、藤城はこう尋ねてきたが、僕はそれには答えず、 「深川へは行かれましたか?例の沙織の隣人の女に、写真を見せましたか?」 と質問した。 「ええ、昨日行って来ました。やはり、間違いありませんでしたよ。沙織を殺したのも、モデルの女に違いありません」 「そうでしたか・・・わかりました。念のために、確認しておきたかったのです」 「先生、今どちらなのですか?教えて下さい・・・」 僕はそこで受話器を下ろした。 やがて中央線に乗車した僕は、これからいよいよ麗華の住む家へ・・・恐らくは、伯父と一緒に住んではいないであろう自宅へ、向かおうとしていたのである。 迷妄の世界を綿密に築き上げ、嘘に嘘の上塗りで緻密に創り上げた類稀なる艶美な女を演じ、二度と這い上がれぬ底なしの無限地獄へ突き落として、死の巡礼者の如く永久に彷徨わせようとした、恐ろしき悪魔の策略に、心底震え上がらんばかりの思いであった。 いつ暴かれるとも知れぬ虚構の幻想世界を構築するための時間と金を、惜しげもなく費やすほどの価値が、一体何処にあるというのか、そして、何故麗華は・・・いや、もはや名前さえ本名であるかどうか怪しいものであったが・・・万に一つとしてないような奇跡の偶然を装い僕に近付いて、騙し続ける必要が何処にあったのか。 そして、これは最大の謎なのだが、麗華は果たして、須美子殺しの、犯人なのだろうか。とすれば、その動機は何なのか、如何なる理由があってのことなのか。 また、秦を温泉宿で、沙織を油堀川で殺した犯人も、やはり麗華なのであろうか。 その一方で、花司家の崩壊に、麗華が絡んでいるのではないかとの想像も、異様な真実味を持って迫ってくるのであった。 中央線に乗車しておよそ四十分経った頃、荻窪停車場に到着した。震災以後、東京市内や地方から移り住む、郊外の新開地と聞いていたが、南側の改札を出ると、雑木林や田んぼなど、長閑な田園風景が一面に広がるばかりで、西武電車が走り、風が黄塵を巻き上げている六間(約十メートル)足らずの街道を西進し、踏み切りを越え北に抜けても、欅(けやき)並木、畑、藁屋根の商店などが点在する寂しい景観であった。 地図を頼りに、街道から、往診用のお抱え人力車のいる医院の角を曲がり、北へと伸びる畦道に入った。 真っ青な空には白い雲がいくつか顔を出し、畦道の両側に広がる、濃淡の茶色と緑色に彩られた田畑に陽射しが照り付け、土の微かな匂いが立ち込めている。 ハイカラでモダンな洋装を好み、常に流行に敏感であったかのような麗華の住む土地にしては、あまりにも場違いで不釣合いのような気がしてならず、疑念を抱かずにはいられなかったのだが、考えてみれば、そもそも僕は、彼女のことを知っているようで、実際のところは何も知らないのだということを、今更ながら思い出していた。 本当は地元農家の娘か、この辺りに別荘を持つ日本橋界隈の資産家の娘か、それとも、震災以後家を失い新天地を求め流れてきた下町の番頭や職人の娘、いや、豪邸を新築し移り住んで来たインテリ階層の娘かもしれないなどと考えている内に、欺かれ続けてきたことに対する憤りが、沸々と込み上げてきたのである。 清流の桃園川を渡り、東を眺めると、一面の水田の彼方に、阿佐ヶ谷や高円寺の森が見渡せた。 昨日から未明まで雨が降っていたのであろう、水溜りのあるぬかるんだ道を歩き続け、やがて見晴らしのいい場所にぽつんと建っている八幡社の鳥居と、鬱蒼と生い茂る森や麦畑、平屋建の小学校を右手に北上して行くと、東西に延びる村道に出て右折した。 両側に果てしなく続く雑木並木が村道に影を落とし、風が吹く度にザワザワと、落ち着きなく枝葉を擦り合わせている。 一町ほど進むと、左手に火の見櫓(やぐら)、右手に建設中の学校のある角を左折し、橡(くぬぎ)林と畑に挟まれた畦道を北上すると、杉木立に囲まれた参道の敷石が続き、やがて蓮華寺という寺に突き当たった。 地図と照らし合わせながら、この付近であろうと察し、寺の裏手に回ると、竹薮を切り開いて建てたような大きな邸宅が一軒、見つかったのである。 しかし、周囲との一体感など一切図ろうともしないかのような高い煉瓦塀で囲まれた邸宅は、急勾配の直線的な赤瓦の屋根と、二階部分の窓を僅かに覗かせるだけで、全容を窺い知ることが出来なかったが、恐らくここが、麗華の住む家に違いないと確信するに至った。 戻る 56へ |
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