地 獄 の 接 吻 (52) 斡旋所から外に出ると、相変わらず今にも降り出しそうな灰色の厚い雲が空を覆い、遠くでは、猛獣の咆哮のような雷の轟音と閃光が、雨の匂いを含んだ湿った空気を震わせていた。 市電を乗り継ぎ芝の白金台町方面に向かっても良かったのだが、荒天の前触れのような暗い空に気分が重くなったばかりか、麗華への疑念が深まっていくことで自縄自縛に陥っていく心中を落ち着かせるために、わざわざ省線に乗車したのである。 山手線がほぼ半周する間に、柔らかい座席にどっかりと腰を下ろして目を瞑り、何か善からぬことが起こる予感と様々な思いが去来しては、心の奥に沈殿する苦しみを、時間の経過と共に消化させようと努めた。 やがて目黒停車場に到着すると、出発間際であった馬場先門行の市電に飛び乗った。 芝白金は初めて訪れる土地であったので、あらかじめ自宅から持参していた地図の写しを車内で広げ、白金台町一丁目を探した。目黒停車場から約九町(一キロ)離れた先の、ちょうど市電の走る表通りに沿って、南西から北東へと広がっている地域だということがわかり、三つ目の停留場、日吉坂上で下車したのである。 なだらかな坂道である表通りを歩きながら辺りを窺うと、高台に位置しているため下り坂が多く、煉瓦造りの洋風邸宅や広大な敷地を擁する別荘、モダンな学び舎や瀟洒な家々の屋根の連なりなどが混在し、彼方の緑深い樹林と溶け合う景観は独特であった。 麗華の伯父の住所である、白金台町一丁目六十番地は、表通りから南へと下る坂に入って左側、数寄屋風造りの豪邸と、和風の町家に洋館が渡り廊下で附設されている、和洋館並列の邸宅が軒を並べる辺りと踏んだのだが、玄関先の表札を見ると違っていた。残るのは、木造平屋建の、軍人の集会所だけのようであった。 付近一帯を往ったり来たりする間に、最も表通りに近い、数寄屋風造りの豪邸から、黒縮緬の羽織を着た五十がらみの婦人が表に出てきたのを目にして、躊躇いもせず咄嗟に声を掛けた。 「お尋ねしますが・・・この辺りに、六宮さんのお宅はございませんか?」 婦人は急に声を掛けられたことで驚いたような顔をしたが、すぐに思案に耽るような表情を作り、 「六宮・・・さあ・・・」 と首を傾げながら言った。 「白金台町一丁目六十番地と聞いているのですが・・・どうしても見当たらないのですよ」 「そのようなお名前は聞いたことがございませんわね」 「まさか・・・間違いなく、この番地だと聞いているんですが」 「長らく白金台に住んでおりますけれど、存じ上げませんわ。六十番地というと此処だけですのよ。六宮というお名前ではございませんわ」 「此処だけと仰いますと・・・この家が六十番地なのですか?」 「ええ、そうです」 僕と婦人の眼前に、瀟洒な邸宅が点在する中でも、あまりにも桁外れな威容を誇っている大豪邸があった。付近を探し歩いている時から目に付いてはいたが、まさかここは違うであろうと、何度も素通りしていたのである。 赤い煉瓦に白い花崗岩を帯状に配した門柱と袖塀の間の、鎖が幾重にも巻かれ南京錠で施錠されているアール・デコ調の鉄柵の門扉から、広大なテラス式欧風庭園の中を真っ直ぐに延びる道が、重厚な石造りのアーチ型エントランスへと続いている。 赤紫の石で覆われた煉瓦造りの二階建洋館は、英国貴族の城のようであり、ゴシック調の荘厳な美しさに、思わず威儀を正したくなるほどであった。 しばしの間、贅を凝らした威風堂々たる佇まいに圧倒されていると、またもや雲間に雷光が走った。 銅鑼の音の如く、不気味に轟き耳朶を打つ、雷鳴に釣られて頭上を見上げると、低く垂れ込め空を埋め尽くす、うねる黒雲の下、蔓薔薇が絡まる巨大な花崗岩のアーチ門に、菱に対鶴の家紋が彫られてあるのに気付いて、何処かで目に留めた記憶があることを思い出した。 一体いつ何処で目にしたものであったのか、霞みの彼方に散った記憶を必死に手繰り、探し当てたもの・・・それは、モデル斡旋所で初めて麗華と対面したあの日、彼女が使っていた黒い万年筆に、まさしく同じ紋様が刻印されていたことを思い出したのである。 その鶴の紋様は何かと尋ねた時、麗華は、実家から持って来た物なので詳しくはわからないと答えた覚えがあるが、その言葉が嘘であろうと何であろうと、今目の前にしている家紋と全く同一の紋様である事実に変わりはないのだ。 そこに何らかの因果関係があるはずである。 鈍い光を持った黒雲を不安気な表情で見上げながら傘を広げようとしている婦人に、僕は再び問い掛けた。 「失礼ですが・・・これは何という御方の邸宅なのですか?」 すると、婦人は急に眉を顰(ひそ)め、警戒心を露骨に浮かべた怪訝な表情を押し隠そうともせず、 「花司(はなつかさ)男爵邸ですのよ」 と、素っ気無く言い放った。 「花司?」 「御存知ありませんの?」 「ええ、存じ上げません。申し訳ありませんが・・・その、花司男爵なる人物について、どんな些細なことでも結構ですので、教えていただくわけにはいきませんか?」 しかし婦人は、ますます態度を頑なにして言下に拒絶した。 「私は貴方を存じ上げませんし、何が目的でこちらまでお訪ねになられたのかも、伺っておりませんのよ。ですから、私からはこれ以上何も申し上げられませんわ。ご自分でお調べになられたらいかが?」 それは尤(もっと)もな指摘であったが、手の平を返したような婦人の対応に、ただ戸惑うばかりであった僕は、その場で適当な作り話をでっち上げることも、ましてやありのままの真実を話すことも出来なかったのである。 花司家、如いては花司男爵なる人物が何者であるのか、その疑問を早急に晴らしたいがために無理に聞き出そうとしたことを詫びたが、このまま引き下がるわけにはいかないと意を決していた僕は、 「無礼を承知で、これから訪ねてみることにします」 と言った。しかし、婦人は神妙な面持ちで、 「まあ・・・それは無理ですわ。四年前の事件以来、もうどなたも・・・」 と言いかけて言葉を切った。 「四年前の事件?・・・それはどういうことですか?」 「もうどなたも住んでおられませんの」 それっきり、婦人は口を噤んでしまったのである。 それはまるで、花司家に関する、触れてはいけない禁忌であることを、暗黙の内に知らしめようとするかのようであった。 身を翻して傘を広げた婦人がその場から立ち去った瞬間に、雨粒がしっとりと頬を濡らし始めた。 雷光に焼かれた闇のような空に振動が溢れ、まるで生き物のように蠢(うごめ)く垂れ込めた雲に呑み込まれそうになっている煉瓦造りの洋館が、この時ばかりは巨大な幽霊屋敷のように見えた。正面東向きの出窓のいくつかが開け放たれることも、黒羅紗の大礼服を着た男爵や、舞踏会用のドレスを着た夫人や令嬢が、ステンドガラスが嵌め込まれた重厚な玄関扉から姿を現わす気配さえ微塵も感じられない。 確かによく目を凝らせば、欧風庭園は手入れが行き届いておらず、芝草は生えるに任せてあり、枯衰した植物や花々は退廃的な雰囲気をより一層醸し出し、もはやかつての栄華を留めているに過ぎないように思われた。 戻る 53へ |
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