地 獄 の 接 吻 (51) 谷中三崎町のモデル斡旋所へあらかじめ電話をし、代表の野々村に会うため自宅を出たのは明朝のことだったが、彼はひどく驚いたに違いない。もっともらしい言い訳を考えている心的余裕など僕にはなかったのだから無理からぬことだ。 「はあ・・・六宮麗華の住所をお知りになりたいと?・・・ここに来た経緯を知りたい?・・・はあ・・・えっ?何ですって?こちらで把握している六宮のことを洗いざらい教えてくれと?・・・先生、何事かございましたかね?はあ・・・はあ・・・何とまあ・・・それはまた・・・はあ・・・では先生、一時間後にまた掛け直していただけませんか・・・?それまでにはお伝え出来るように・・・えっ?これからいらっしゃると?・・・はあ・・・わかりました・・・事情はわかりましたが・・・ええ・・・そうですか・・・それではお待ちしてます」 一睡も出来ないままに迎えた朝は、一晩中苦しみ抜いた事態の甚大さに比例した、実に重苦しいものであった。 ぼんやりと霞んだ視界を見上げると、空は心の闇を投影したように暗かった。陰鬱な厚い黒雲が重なり合いながら移動し、肌を刺すような風に乗って不気味な遠雷が轟き、言いようのない不安を内に追いやり凝縮させる。 街行く人々の無機質な顔、冷ややかな無関心の目が、胸を締め付けられるような疎外感を生み、逃げ出したい衝動に駆られた。 その鬱積した行き場のない、深く澱んだ負の感情が寄生虫のように体内を蝕んでいくのを感じながら三崎町に着くと、何かの不吉な前触れのような、止みそうな気配が微塵もない、暗黒の空にひび割れる遠雷の音から足早に逃れるように、斡旋所に入った。 受付の丸髷の婦人に名前を告げ、麗華と初めて対面したあの部屋、座敷に沿って走る冷たい板張の廊下を軋ませながら歩いた先の、あの最奥の応接室へと案内してもらい、中に入ると、遠雷の閃光が轟き、窓レースの隙間を縫って室内一面が照らされ眼窩の奥に残像を宿す。 左右の壁側に書物棚、中央には巻煙草入とマッチが置かれている卓子があり、向かい合わせに二脚ずつ椅子がある他は何の装飾もない、ガランとした空虚な暗い部屋であるはずが、雷光が轟いた瞬間、長い睫毛に彩られた大きな瞳がこちらを見、白い肌に映える魅惑的な紅を引いた、花のように美しい唇を微笑ませる麗華の姿を垣間見たような気がして、身じろぎもせずその場に立ち竦んでいると、紺の背広を着た野々村が入って来て、束の間の幻想を追い払った。 口髭を指で撫で付けながら、実に神妙な面持ちでいる彼と、卓子を挟んで向かい合い、複雑怪奇なる事件の裏面に脈動する、どす黒い悪意の血の元凶が果たして麗華であるのか否か、事実確認をする重要性を僕は説いた。 と同時に根底には、美の象徴たる麗華像を捻じ曲げられて欲しくないとする純粋な渇望があり、寧ろその裏付けを取るためだと自分に言い聞かせた。 野々村曰く、麗華が斡旋所に来た経緯を思い返してみると、そもそも当初から合点のゆかぬところがあったというのである。 大正十五年の八月、新聞の求職欄を見たと言って突然やって来たそうであるが、その求人欄というのが、震災で倒壊した建物の改築を終える七ヶ月前の、大正十五年初頭の新聞広告だったというのだ。 「改築以前は仮事務所で仕事をしていたんですが、これを機にまた求人広告を出そうということにしたわけなんです。『容姿端麗、分娩経験なく発育十分なる淑女求む、十五歳から二十五歳、履歴書を添え申出られたし』という広告を出したんですが、六宮が来た時は求人をしてなかったんですよ。ところが、是が非でも職に就きたいと言うものですから、その並々ならぬ熱意にこっちが根負けしたとでも申しましょうか。まああの通りの美人ですし、絵画にしろ彫刻にしろ、好適の素材に成り得ますから、無下に断る必要もないだろうと雇うことにしたんです。ところが先生もご存知の通り、その後は一度も座敷に入ることはなかったんですよ。劇団の稽古があるだとか、伯父に用事を頼まれたとか理由を付けられましてね。先生のご依頼を引き受けるまでは、仕事は一切しませんでした」 「彼女との連絡手段は?伯父の家に電話をしていたのですか?」 「いえ、六宮の方から連絡をくれていたんですよ。伯父の家の電話を使うことを遠慮しているとかで。どうぞ、ご覧下さい・・・これが六宮の履歴書の写しです」 野々村は、履歴書を卓子の上に置いて滑らせるように押しやった。 それを手にして眺めている合間に、突き詰めて考えれば尚深みに嵌まっていくような新たな疑問、偶然という安直な言葉では到底説明し切れない出来事の背後に見え隠れする異様さを、野々村が口にした。 偶然の一致にしては出来過ぎている、摩訶不思議なる運命の糸を手繰り寄せれば、怖気を震うような、恐ろしい事実に辿り着くのではないかというのが彼の見解であった。 「今、改めて考えるとですよ・・・先生がご依頼を受けたというあの内容、モデルの容姿の細部にまで拘(こだわ)ったあの内容に、寸分の狂いもなく六宮が合致したことは、恐ろしく出来過ぎた話のように思えませんか?」 これは彼の言う通りであった。 完璧なる理想の素材を求めることは難事であり、少々の妥協を受け入れる覚悟は持っていなければならない。 あれほどの、仔細に渡る依頼内容に合致したことは、奇跡と呼ぶに相応しいであろうが、僕と麗華の出逢いは決して運命の必然ではないのかもしれなかった。 陰惨な闇の世界へと引き摺り込むための大掛かりな罠であったとするならば、僕はまんまとその術中に嵌まったということになる。 「僕もそう思います。ということは・・・あれだけ容姿の細部に拘(こだ)った、裸婦画制作の依頼の手紙も、実に怪しいものになってきます。もしかすると、依頼人である日下部氏は、実在の人物ではないのかもしれません」 「そうなってくると、これはますます奇妙な話になってきますね・・・いやはや、また何とも・・・。履歴書を見る限りでも、六宮は全てに於いて申し分のない美しい娘ではありますが・・・確かに、変わったところもありましてね。裸身モデルの賃金は一日七十銭なんですが、それを一度も受け取ったことがないんですよ。後である程度まとめて貰うと言ってはいたんですが、どうもそんな様子もなく、かなりの日数が経ちましたからね」 麗華の履歴書は、僕と初めて対面した日に彼女の口から聞いた経歴と寸分違わぬもので、野々村が指摘した通り、あの上品で清楚な美貌や立ち居振る舞いの端々から見て取れる非の打ち所のなさは、良家育ちの所以であろう。 出自や経歴を歪曲誇張し、架空虚像を創作したのでなければ、僕を地獄に叩き落すための罠でなければの話であるが。 しかし、あたかも奇遇を装って僕に接触したとすれば、その真意は何であろうか。 そして、麗華が須美子を死に至らしめた犯人であるとするならば、その動機は一体何だったのであろうか。 いくら考えても憶測の域にさえ到達することが出来ず袋小路に迷い込むのだ。 「先生、これからどうなさるおつもりで?」 僕は履歴書の写しを上着のポケットに忍ばせながら答えた。 「直接、白金台の伯父の家に行こうと思っています。まだ面識はありませんが、僕のことは彼女から聞いているはずですから。色々と探りを入れてくるつもりです。そして出来れば、今夜中にでも、依頼主が住んでいる名古屋へ行ってみようと思います」 「そうですか。どういう結果になるか私も想像がつきませんが・・・万が一事実だとすれば、尋常ではない怪事件ですからね。くれぐれも慎重に行動なさって下さい」 戻る 52へ |
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