地 獄 の 接 吻 (50) ふいに口の中がカラカラに乾いていくのを感じ、電話機が霞んで見えるほどの眩暈を覚えて目を瞑った。 そして、腹の底から渦を巻くような吐き気に襲われ、激しい耳鳴りのため家主に礼を言った自分の言葉さえ聞き取れない。 悪寒と凍てつく外気に身を震わせながら、出来得る限り遠回りをして気持ちを鎮めようと、裏手の狭い通りに出たが、歩行もままならない状態だった。 雨が止んでいたのはせめてもの救いであったが、闇の中を手探りで歩くように、一歩一歩地面の感触を確かめるように歩く両脚には力が入らず、不規則な呼吸によって肩を上下させ、時折電柱に寄り掛かり、仰ぎ見る鉛色の空に向かって白い息を吐いた。 容赦ない真実を突きつけられたことが、綻びを生みたちまち巨大な決壊となり、砂上の楼閣の如く、積み重ねてきたものは脆くも崩れ去って、完膚なきまでに僕を打ちのめそうとしている。 嘘であって欲しいと願いつつ、心の奥底ではそれを信じられずにいる自分がいた。いや、その逆かもしれない。寧ろ、どちらでもないのかもしれなかった。 真っ白になった視界の中に、麗華の愛しい姿がおぼろげながらも現れては霞んでいき、やがては塵となって無に帰した。 そんな馬鹿な・・・。そんな馬鹿なことがあるわけがない・・・誰が何と言おうと僕は信じない・・・。 平静を保とうする気持ちとは裏腹に、込み上げてくる感情を、張り詰めた気持ちを、最後まで拭い去ることが出来ずに、自宅の前まで戻って来てしまった。 額には脂汗が滲み、強く握り締められた拳は震えさえ帯びている。 ゆっくりと玄関の扉を開けて中に入り、そこで一旦立ち止まった後、ふらふらと、まるで夢遊病者のように、階段を上がって行く。 麗華は、四方の壁に沿って整然と並べている絵画の中の一枚を手に持って、柔らかい微笑を含んだ表情で眺めていた。 「和真さん。わたくし、ここへ行ってみたいですわ」 アトリエに入って来た僕に、故郷の風景画を描いた作品を見せた麗華は、期待に胸を膨らませているといった風に、いかにも楽しそうに言うのであった。 イーゼルの正面の椅子にどっかりと腰を下ろし、動揺を悟られまいと必死に言葉を紡いだ。 「三島へかい?まさか、住みたいなんて言わないだろうね」 「いいえ、こんな素敵な所でしたら、住んでみたいと存じますわ」 「嫌とは言わないが・・・まあ一度、一緒に行ってみようじゃないか。案内してあげるよ」 「お約束して下さいます?」 「勿論だとも」 「まあ、嬉しい。わたくし、早く東京から離れたい・・・」 カンバスに塗り込められたまだ見ぬ情景への敬慕からか、純真そのものの輝きを見せる瞳の奥底に、残酷で血塗られた、どす黒い底なしの闇を秘めているなどと誰が信じ得よう。溢れんばかりの期待に輝く表情の裏面に、邪悪な顔を隠しているなどと誰が信じることが出来よう。地獄のような日々に安穏をもたらしてくれた美麗なる女神が、僕をその地獄に突き落とし、苦悩の鉄鎖に縛りつけた悪魔の化身に他ならないと誰が信じられよう。剥き出しの本質だけが真実ではないというのか。 あらゆる思いが錯綜し渦を巻き、無限に襲い掛かる怒りや恐怖が鋭い刃となって、体内を引っ掻き回すような痛みに蝕まれそうになった。闇の向こうに見ていた夢の残滓が現れては消えていく。 「どうかなさったの?」 その声によって現実に引き戻された僕は、抱えていた頭を上げると、いつの間にか傍らには麗華が立っていた。 「いや・・・ただ・・・真剣に考えていたんだよ。君と・・・ここを出たら・・・何処に住もうかとね・・・」 くつろげた浴衣の襟から露わになっている鎖骨の流麗な線を見つめながら、冷静に取り繕った声音でこう言った。 「そうでしたの。わたくしはてっきり、お加減でも悪いのかと心配しましたわ」 「まさか。どこも悪くはないよ。それより始めようじゃないか。今日中にこれを完成させるんだ」 「もう準備はよろしくって?」 「うん、大丈夫だ」 絵の具を搾り出したパレットと親指の間に絵筆を挟み、イーゼルに片手を添えてカンバスの位置を微妙に直している間、浴衣を脱いだ麗華は定位置に立って、細く優美な線と、柔らかで透き通るような肌を露出させたが、果てしなく神々しいものに昇華されたその肉体と僕との間に、限りなくぼやけた境界線があるように思われた。 絵筆をカンバスに伸ばそうとした瞬間、ひょっとすると、この境界線の向こう側の虚像に、ただ妄想を膨らませていただけではないのか、真実を知ることを恐れているばかりでなく、妨げているのも自分自身ではないかという思いに囚われ、描こうとする意欲さえも失ってしまいそうだった。 僕は現実にないものを追い求めていただけなのだろうか。 「和真さん。どうかしら?いつものポーズと違ったら仰って」 いや、ポーズが違うどころの話ではなかった。 確かに、君は完璧な美の具現者だ。 しなやかな曲線を描く妖艶な肢体と温かみのある白磁の肌、長い睫毛、涼やかで輝かしい瞳、薔薇色の唇、そして美しく波打つ漆黒の髪を梳く仕草さえ優雅な美を孕(はら)んでいる。 しかしその麗しき外見の裏に隠された黒く残忍な真の姿、恐るべき淫美なる本性を心奥に厚く覆い隠しているとするならば、君の顔は漠然とした仮面のようになり、肉体は焼け爛(ただ)れ蛆が湧き、ドロドロに溶解していく寸前の、肉塊と成り果てるのだ。 そうあって欲しくはない。絶対にあってはならないことなのだ。 まるで淡青色の靄が立ち込めているような朦朧とする意識の中で、正体の知れない不安や焦燥感以外に、体は殆ど何も感じなくなっていた。或いはいまだに、須美子が殺されたことによって味わった、地獄のような拷問の延長線上にいるだけなのかもしれない。もしくは、麻痺した脳が見せている幻惑に過ぎないのかもしれなかった。 それでも、知らず知らずの内に、僕はカンバスに絵筆を走らせていた。 生命力溢れる赤色が、麗華の裸体を取り囲み、それは内面から発する彼女の激情であり、僕の情熱であるはずであったが、それはどこかくすんだ色感を観る者に与え、瞳は翳りの色が濃く空虚であり、心の交わりを拒絶しているかのようだ。 この絵は元々そうであったのか。それとも、こうして完成した今日この時に、僕が変えてしまったのだろうか。ただそう見えるだけなのか・・・。 僕は、パレットと絵筆を床の上に落としてしまい、ぐったりとした体を背凭れに預け、浴衣を羽織ながらこちらに近付いてくる麗華の姿を視界の隅に捉ると、目を瞑った。 僕の傍らに立ち、完成した裸婦画をじっと眺めているのであろう、微かな吐息が聞こえていたが、それは程なくして止まった。 重い目蓋を開いて見ると、麗華はカンバスの前に立ち、何を思い何を感じているのであろう、身動き一つせず黙しているだけであった。 静謐な空気がアトリエを支配し、それが永遠に続くのではないかとさえ思ったほどである。 すると、小さく溜息を吐いた麗華は、おもむろに、疲労感と喪失感でうなだれ、椅子に凭れ掛かっている僕を振り返った。そこには、何の表情も浮かんでいない。ただ、掴み所のない見透かしたような眼差しを向けているだけであった。 僕は黙って、その眼を見返した。 無言の交感によって麗華が知り得たことは一体何であったのか、それはわからない。しかし、彼女はカンバスの前から離れ、脱ぎ捨てた衣服のある所まで歩いて行くと、それらを身に着けながら、初めて口を開いた。 「和真さん・・・この前、夜もわたくしを描いて下さるって仰いましたわね。これからも・・・永遠の姿を・・・もっともっとカンバスに留めて欲しいわ・・・」 僕は何も言わず、ただ麗華の言葉に耳を傾け、そしてその後も、そのままじっと座っていた。 麗華が自宅から音もなく出て行ってからも、青白い月明りがアトリエの床を暗く照らし出すまで、僕はただ、そこにいるだけであった。
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