地 獄 の 接 吻 (49)

 

 「どう思いますか、山崎さん」
東京駅からの中央線に乗車し、座席の背もたれに寄り掛かって、流れゆく窓の景色をぼんやり眺めながら、隣で腕を組んで座っている山崎刑事に問い掛けた。
既に灰色の空に雲が大きく垂れ下がり、窓を伝う雨粒が付いては飛ばされ、付いては飛ばされていく。車内は肌にまとわり付くような湿気が立ち込めていた。
「動機が見えませんね。犯人の目的は一体何なのか・・・須美子さんの事件が発端になっている一連の事件の陰に、女がいることだけは明確になってきましたが、いまだに憶測の域を脱しません。幾重にも絡まった糸を解していくのは、容易なことではなさそうです」
蝋人形のように何処か一点を見つめながら電車に揺られている乗客たちに視線を移すと、ますます心が塞ぎこんでいくような気分になる。
風に叩き付けられている窓の向こう側の建物が、横殴りに降り続ける雨に打たれて憂欝に沈んでいるのが見える。午後一時を過ぎたばかりだというのに、すっかり暗くなった空が余計に憂鬱を掻き立てた。
「最近・・・こちら側の動きを全て監視されているような気がするんですよ。秦の正体がわかった途端飯坂町で殺され・・・重要な証言を得ようとした沙織も、その直前に殺されましたしね」
「先程仰っていた、愛姫という女が絡んでいると?」
「ええ。藤城さんが、今調査を進めていると思います。何かわかればいいのですが・・・」
 しばらくすると電車は水道橋で止まった。自宅はここが最寄だという山崎刑事とはそこで別れ、やがて電車は約十五分後に、代々木の停車場に到着した。
閑散としているホームが、ますます激しくなってきた雨で濡れている。傘を持っていない僕は、雨足が落ち着くのを、板囲いの待合所でしばらくの間待っていようかと思ったのだが、徐々に近付くにつれ、その場所に麗華が腰掛けているのを見つけたのである。
雨に濡れ光沢を帯びているように見える車体がホームから遠ざかって行くと、線路に視線を落とした秀麗で大きな瞳は、長い睫毛の下で緩く伏せられている。空を見上げ吐いた白い溜息は、雨の隙間を縫うように消えていく。いつもの麗華とは違う物憂げな横顔に戸惑い、立ち止まりそうになったほどである。
その雰囲気を察知したのか、近付いてくる僕の存在に気付いた麗華は、隣の椅子に寝かせていた傘を手にして立ち上がると、引き結ばれていた柔らかそうな桜色の唇から白い歯を零し、憂いを含んだ瞳を瞬時に輝かせた。
「どちらへお出掛けでしたの?」
僕の表情を確かめるように深く覗き込んできた麗華の瞳には、好奇心の色がありありと浮かび、胸の内にあるものを全て引き出されそうな気がした。
「江口さんの所に行ってたんだ。また、個展をやらないかと誘われてね」
「まあ、そうでしたの。それなら良かったですわ。今朝起きたらいらっしゃらなかったんですもの。メモは見ましたけれど、とても心配しましたわ」
「申し訳なかった。でも、どうしても今日じゃなければ駄目だと言うからね。前回の個展は・・・」
と言い掛けた唇に、悪戯な笑みを美しい頬に浮かべながら、人差し指を押し当ててきたのである。
「和真さん、もうよろしくてよ」
それはまるで、僕の心を見透かし全てを知った上で言い放った、哀れみの言葉のようであった。
「今日は絵をお描きになるのでしょ?」
改札に向かって歩き出しながら尋ねてきた麗華の言葉に耳を傾けつつ、そろそろ本当のことを話すべき時ではないかと考えた。
もしも、新聞や何かで須美子の事件を知り得ていたのだとしたら、深い配慮のもとに口外せず胸の奥にしまい込んでいるだけなのであろうし、何も知らずにいたとしても、このまま押し通して、須美子が殺された事実をいつまでも隠しているわけにもいかない。なぜなら、これ以上嘘を吐くことに心を痛めていたからである。
しかし一方で、何も知らないままでいて欲しいと願う気持ちも片隅にあった。その狭間で揺れ動く心ごと放棄して無心になり得たならば、どれほど楽であろうかとさえ思ったのである。
「勿論描くさ。もう間もなく完成するからね。あと一息だ」
「よかったですわ。嬉しい」
二人で差した傘を打ち、霧のように景色に溶け込む雨が、周囲から僕たちを隔てる紗幕になった。
傘の中という閉ざされた空間による所為かもしれないが、外界と遮蔽された心地好い閉塞感と、肌を掠める風もない無音の世界に、二人だけが存在しているかのようだ。
絹の手袋を外して僕の指を包み込むように握った麗華の手には力が込められ、静かに降り注ぐ陽光が胸の奥にまで染み入るように、柔らかく温かい感触が、凍てついた心をも溶かしてくれるかのようだった。
 自宅に着くと、麗華に導かれるようにして二階のアトリエに上がり、染み付いた油の匂いと、イーゼルに掛けてある完成間近の裸婦画が僕を迎えてくれた。
ファーベルベットのコートを脱いで、アトリエの隅に置いてあるストーブを焚きながら、麗華がぽつりと言った。
「和真さん。わたくし、東京を出たいですわ」
シャツ一枚になり袖を捲り、道具の準備を整えていた僕は、その言葉を聞いて驚いた。
「何だって?・・・どうして急にそんなことを」
「わたくし、地方から上京して参りましたけれど、東京の空気はわたくしには合わないようですの。ですから和真さん、近い内にわたくしを、何処か遠くに連れて行っていただけません?」
唐突のことで呆気にとられてしまった僕は、考え込むだけで何も言えずにいた。
ストーブから離れた麗華は、イーゼルの前で立ち尽くしている僕に近寄りながら、衣服を一枚一枚足元に脱ぎ捨てていき、一糸纏わぬ裸身になった。
絹のように滑らかな肌と薄く曖昧な脂肪が肢体を包み、その滑らかさと曖昧さが、裸体をより一層艶かしく彩っている。熱に浮かされたかに見える微かに上気した顔には、僕の表情の変化を網膜に焼き付けようとするかのように、気負いも躊躇もない潤った瞳を、瞬きもせずに静かに見据えている。
「どうしたっていうんだい?君は東京のような都会の方が、性に合っていると思っていたけどね」
「いいえ、とんでもないですわ。正直申し上げて、この街には心休まる時がございませんの。此処はありとあらゆる物が、雑然として混じり合って、お互いに反発して、否定し合っているだけではありませんか。都会の巨大さに押されて、人間が卑小になってしまいますわ。わたくしのように慣れない都会生活をしておりますと、煩雑さに追われるだけで、周囲の繁華との格差に脅かされるだけですの」
「驚いたね。まさか君がそんなことを考えていたなんて夢にも思わなかったよ。僕からすると、君は上手く溶け込んでいるように見えるけどね。まあ、僕も上京して来て、東京という街の混沌のなかに身を置く人間であるから、君の言うことはわかる。都会に住む人間が、生活に疲れて田舎の生活に憧れることが多いのもそのせいだろう。しかし、田舎に住む人間にとってみれば、不便な生活から脱したいと思い、或いは単調さに退屈して、都会での生活に憧れるものさ。僕がそうだったからね。これは結局のところ、自分が得ていないものや、自分の置かれてる状況とは正反対のものを希求する気持ちの表れなんだろう。どんな土地にも、いいところがあれば悪いところもあるものさ」
「ええ、短所よりも長所の魅力が大きければそれでいいんですのよ。東京に対する不満よりも、長所に対する魅力が勝れば、わたくしも定住したいですわ。要は価値観の問題ですの」
「なるほど。価値観が住む場所を決めるということか。だとすれば、君は何処に住みたいんだい?」
「出来るだけ遠くへ行きたいのです・・・和真さんと一緒に」
僕も麗華と一緒ならば、何処へ行こうと構わない。
麗華の話を噛み砕いて理解しようと努めながら、その気持ちを声に出してしまっても良かったのだが、何故かそれを押し止めようとする心的作用が働いて、急に口を噤むことになってしまったのである。
僕は麗華を愛していた。心の底から、ずっと一緒に暮らしていきたいと切に願う気持ちがあったにも関わらず、何かが僕にブレーキを掛けた。
その正体が一体何であるのか、僕自身でさえわからなかったのである。
「麗華。その話はまた後にしようじゃないか。どうやら僕は今、君を描きたくてウズウズしているようだよ。さあ、準備をするよ。それまで、ほら、そこの浴衣を着て、待っててくれないか」
「和真さん。真剣に考えて下さいませんか?お約束なすって」
「考えるも何も、前から言っているように、君なしの人生なんて僕は真っ平御免だ。こう言っても信じてくれないのかい?」
この直後、麗華は僕の背中に指を滑らせ狂おしく抱きついてきた。
「和真さん・・・離れないで欲しいの。お願いですからお約束なすって。わたくしと遠くへ・・・遠くへ行って下さるって」
息が詰まるほど、僕の胸に顔を埋めている麗華の漆黒の髪の毛を撫でてやりながら、約束するよと小さく囁いた。
麗華の荒い息が、肌蹴た胸元に熱くかかる。
そっと彼女の顔を上向かせると、噛み締められた唇が不意に緩み、哀願の光を宿した濃い茶色の瞳に吸い寄せられるように、口づけをした。
「何も心配はいらない。僕はずっと君と一緒にいる。だから安心して欲しい」
「・・・ごめんなさい、急にこんなことを申し上げて・・・」
「気にすることはないさ。さあ、元気を出してくれ。そしてこの裸婦画を今日中に完成させようじゃないか」
 その時、階下から僕の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
耳を澄ますとそれは家主で、呼び出しの電話が入っていると告げていたのである。
麗華に浴衣を着せて階下に降りた僕は、いつものように家主に詫びつつ自宅に上がらせてもらい、廊下の壁に取り付けてある電話機の前に立ち、受話器を手に持った。
「はい、森下ですが・・・」
「先生、藤城です」
「ああ、藤城さんでしたか・・・ちょうどお話したいと思っていたところですよ」
「先生、あの女は何者ですか?」
切迫した事態に追い込まれているような尋常でない声色に、容易ならざる気配を感じ取った僕は、受話器を耳に当てながら立ち竦んでしまった。
「藤城さん・・・何かあったのですか?それに・・・あの女とは誰のことです?」
「あの女です・・・先生のお宅にいるあの若い女ですよ」
急に何を言い出すのかと思いつつ、どう話したらいいものか戸惑い、言葉の真意を探った。
「彼女は・・・僕のモデルですが・・・それが一体・・・藤城さんは、麗華をご存知でしたか?」
「麗華?」
一瞬だけ間があった。
「そうです・・・彼女の名前です・・・それがどうしたと・・・」
「先生。あの女は愛姫ですよ」
受話器を握る掌に、じんわりと汗が滲み、背筋に悪寒が走った。
「ちょっと待って下さい・・・何の根拠があってそんなことを仰るんですか?それに・・・藤城さんは麗華をご存じないでしょう?」
「今日先生は外出されていましたね。午前中、入手した愛姫の写真をお見せしようと、先生のお宅にお伺いしたんです。あの女は何も言ってませんでしたか?」
「ええ・・・言ってませんでしたが・・・」
「先生の留守を預かってるというあの女が応対に出たんですが・・・玄関であの女を見た瞬間・・・驚きました・・・愛姫と瓜二つだったからです。動揺を顔に出すまいと、誤魔化すことで精一杯でしたよ。見破られたら元も子もないですからね。私は、先生の画家仲間であると自己紹介し、留守だと言うので、またお伺いする旨を伝えその場を後にしました。先生、写真は、秦と愛姫が出会った、花月園のダンスホールの経営者から入手したんです。あそこでは、毎夜ホールの写真を撮って、店内に飾っておく習慣がありましてね。あの女は、今、私の手の中にある、写真の愛姫そのものなのです」
藤城の言葉を漏らさず聞き逃すまいと、受話器を耳に押し当てながら、混乱極まる頭を整理しようと目を瞑ったが何も考えられない。
何を言えばいいのかさえわからなかった。
「もしもし?聞こえていますか?」
しかし、徐々に胸奥から沸き起こってきたものは、遣り所のない怒りであった。
「ええ、聞こえていますよ・・・そんな馬鹿な話があるわけがない」
「落ち着いて下さい」
「写真の愛姫とはたまたま似ているに過ぎないはずです・・・誰がそんな話を・・・」
「先生・・・あの女を雇った経緯をお聞かせ願えませんか?」
「到底信じられませんね・・・麗華が愛姫ですって?・・・ということは・・・彼女が秦と共謀して、須美子を殺したと仰りたいのですか?そんな馬鹿げたことが・・・。そもそもあの頃は、まだ麗華とは出会っていなかったんです。彼女を雇ったのは、須美子が死んで二ヶ月以上も経った後のことです。麗華も僕を知らなかったはずだ。愚の骨頂です」
「この写真を見れば先生も納得しますよ。いえ・・・最初にご覧になるべきなのは先生です。いずれにせよ、この女であることに間違いはないのです」
言葉に窮してしまった僕は、背中に冷たい汗が流れ落ちていくのを感じていた。受話器を木箱の中のアームに叩き付け、すぐにでも通話を切ってしまいたい衝動に駆られた。
「藤城さん・・・その写真を、沙織の隣人に見せて下さい。東隣に中年の女が住んでいます。何でしたら、神田署の山崎刑事と行ってみたらいかがです」
「やはり、今日は深川に行かれていたのですね。山崎刑事も一緒だったのですか」
「・・・沙織が殺された当日、見たこともない女と連れ立って歩いていたと、隣人のその女が証言していました。写真を見ればわかると言っていましたからね・・・。探偵と名乗らずに、沙織の親戚だと言えば話を聞いてくれるでしょう。それ以外の立ち入ったことはしないで下さい」
「先生。先生はもしかして・・・あの麗華という女を・・・」
僕はそこで受話器を下ろした。

 

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