地 獄 の 接 吻 (48) 「あんた・・・そいつはまさかまっぽじゃないだろうね」 顎でしゃくるように示すと、山崎刑事は口を開いた。 「いえ、警察ではありません。沙織の従兄弟です。森下といいまして、偶然ここで会いましてね。彼にも、同じ話をしてくれませんか。どうも気になるらしいのです。それと、先程約束したお礼の酒を買ってきましたよ」 山崎刑事が紙袋を掲げて見せると、女は煙を吐きながら少々機嫌良く頷いた。 「じゃさっさと入んな。寒くていけないよ」 女が背を向けて家の中に入って行くと、僕と山崎刑事も玄関に入り靴を脱いだ。 酒の匂いと朽ちた木の匂い、それに染みついた煙草の匂いが入り交じり、眩暈を覚えるようなどんよりとした空気が充満していて、換気をしていないせいか酷く息苦しい。 酒瓶やコップが転がり、畳まずに脇へ除けただけの布団がある不気味なほど暗い六畳間には足場がなく、腰を落ち着かせることなど到底無理な話であった。 布団の上にどっかりと座り込んだ女は、僕と山崎刑事が立ち尽くしていることを別に気にする風でもなく、紙袋をくれと言わんばかりに手を伸ばし催促した。 「何処で買ってきたんだい?」 「さっき教えて下さった裏手の酒屋です」 「あそこはもうあたしには売ってくれないんだからね、嫌になっちゃうよ。だからいつもわざわざ仲町の向こうまで行って買ってくるのさ。まったく、うちの人が先月出てってからこのザマだよ。働かせるだけ働かせておいて、その挙句に女を作っておさらばだよ。涙金程度の銭だけ残して、他は全部あの人の懐ン中。あたしもとことんナメられたもんさ」 溜息混じりに呟く女に、山崎刑事が紙袋を渡しながら慰めるような声音で話し掛けた。 「いずれ戻って来ますよ。今回だけではなかったと言ってたではありませんか」 「ふん、わかってるんだよ、女が誰かってことまで。その気になりゃあ、居所だって突き止められるさ。でもね、あたしはもう金輪際、あの人とは復縁しないよ。ああそうだよ、もう決めたんだ」 その後も独り言のように喋り続ける女は、紙袋から酒瓶を取り出すと、山崎刑事に礼を言った。 「悪いね、あんた。こんなことまでしてもらっちゃってさ」 「いえ、警察に話さなかったことを、内緒で教えてくれたお礼です」 「何が警察だよ、笑わせるんじゃないよ。あんな奴ら、消えてなくなればいいのさ」 「何かあったのですか?」 と、僕はここで初めて女に話し掛けた。 「ああ、あんたにはまだ何も話してなかったね。あたしが酌婦やってた亀戸の銘酒屋にさ、臨検が入ってこっぴどくとっちめられたことがあるんだよ。もう十年以上も前の話だけどね、あん時の屈辱だけは忘れようったって忘れないよ。サーベルをこうやって抜いてさ、こうだよ、こう振りかざしながらさ、この淫売女、二度と堅気の世界に戻れないように吹聴してやるからな、なんてぬかしやがって。あん時はもう悔しくて悔しくて、拘留されてから何日も眠れやしなかったよ。だからあたしはまっぽが大嫌いなのさ。昨日はあたしン所に、やけに手足のひょろ長い痩せこけた馬面のまっぽが聞き込みに来たんだよ。だけどね、何一つ教えてやらなかったよ。出て行きなこの糞野郎って怒鳴ってやったさ」 女は舌打ちをしながら、畳の上に転がっていたコップに酒を注ぎ入れた。それを見て、僕はすかさず尋ねた。 「一昨日、沙織が殺された日ですが・・・沙織と一緒にいる女を目撃していたらしいですね」 女はコップに注がされた酒を一気に飲み干すと、大きく息を吐き天井を仰ぎ見た後、目を細め遠くを見るように呟いた。 「あれは朝の八時頃だったね。いつもだったらその時間になるとさ、和泉屋の源ちゃんがアサリとシジミの入った籠を担いで、売り声上げながらこの辺りを歩くんだよ。あたし雪が降り積もってることも知らないでさ・・・何せあの日もろくに眠らないで、布団の中で酒を飲んでたからね・・・今日は源ちゃんの声が聞こえないねえ、どうしたんだろうねえって思って玄関を開けたら、もう一面真っ白だよ。だから今日は来ないんだって、そん時初めてわかったのさ。で、家の中に入ろうとしたら、隣の家から娘が二人出て来たんだよ。あん時は沙織ちゃんの友達だと思ったんだけどね」 「二人ですか?」 「そうだよ。洋傘を差して前を歩いてたのは見たこともない娘だったね。あれはボンネットっていうんだったかね、つばのない帽子を被って、黒いコートにフカフカの毛皮の襟巻きをしてめかし込んだ上品ぶった女でさ、沙織ちゃんはその後ろを歩いてたよ。何か急いでる感じだったから、何処行くんだいって声掛けたんだ。そうしたら前を歩いているめかし込んだ女がこっちを睨んでさ・・・ああ、恐ろしいね・・・あんな恐ろしい眼をした女に、あたしはいまだかつてお目に掛かったことがないよ。あの冷酷で残忍そうな目つきだけは一度見たら絶対忘れないね。まるで蛙を睨む蛇、鼠を睨む猫の眼さ。このあたしが縮み上がりそうになったぐらいだからね」 「その女は、何か言ってきましたか?」 「いや、何も言ってこなかったよ」 女は一旦言葉を切った。そしてコップに酒を注いでそれを口にすると、再び口を開いた。 「あの女はただあたしを睨みつけて、何も言わずにさっさと歩いて行っちまったんだけどさ、沙織ちゃんはあたしにこうやって頭下げてちゃんと挨拶してきたよ。でも、何処に行くのかは言わなかったね」 「他に、女の特徴を思い出してみて下さい。何か気になったことなどありませんでしたか?」 「特徴って言ったってね、帽子を被ってたし、襟巻きもこう極端に顔の半分を覆ってたからね。写真を見ればわかるかもしれないけどさ、でもありゃあ、きっとすごい美人に違いないよ。あたしみたいな太っちょじゃなかったしね」 「背丈はどのぐらいありましたか?」 「そうだねえ・・・沙織ちゃんより少しばかり上背があるような気もしたからね・・・五尺三寸(約百六十センチ)ぐらいだったかねえ」 秦が飯坂町の旅館で殺される直前に目撃されていた女と、同一人物であろうことは想像に難くない。 「他にはどうです?思い出せるようなことはありませんか?」 女は、酒がコップに注がれていくのを見つめながら、じっと考えている風であったが、やがて口に流し込むと、溜息を吐きながら呟いた。 「さあね・・・さっき、そっちの人にも言ったけどさ・・・あたしが知ってるのはこの程度なんだよ。ねえ・・・もういいかい?悪いけどさ・・・そろそろゆっくり飲ませてくれないかい」 山崎刑事はちらりと僕の顔を見て小さく頷いた。そして、呷(あお)るように飲み続ける女に言葉を掛けた。 「わかりました・・・お時間を取らせましたね」 「いや、いいんだよ、別に」 「今日はありがとうございました。では、これで」 一杯、二杯と立て続けに飲んで仄かに顔が赤らんできた女は、徐々に虚ろになっていく視線を漂わせ、何処を見るでもなく囁いた。 「こう見えてもあたしの先祖はね・・・三百年前に摂津から移住してきた漁民の一人だったんだよ・・・あたしの先祖が深川を作ったんだ・・・」 僕も丁重に礼を述べると、呂律が回らなくなった口調で愚痴や嫌味を吐く女をその場に残して部屋を出たが、玄関で靴を履き、冷たい風が吹き荒ぶ外に出る頃には、女の声は悲哀を帯びた啜り泣きに変わっていた。 「あんた、何処行っちまったんだい・・・早く戻って来ておくれ・・・」
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