地 獄 の 接 吻 (47) 船着場から北に向かって歩を進めながら、外套のポケットから破り取った新聞の記事を出し、沙織の住所を確認した。 船頭が明治小学校の裏手の貸家と言っていたが、左手五本目の角を左折して西の方角に向かい、目的地に近付くに従って、どうやらこの辺りで間違いなさそうだということがわかってきたのである。 恐らく、震災で倒壊していまだ建て直していないのであろう、改築中で骨組だけの建物が右手に見えた。そのまま西に向かうと市電が走る二つ目通りにぶつかるのだが、その手前の角を右折して、更に一つ目の角を左に曲がると、木造平屋建てでトタン屋根の貸家が五軒ほど建ち並んでいる細い路地に入った。片側には裸電球の街燈がチカチカと、点いたり消えたりの明滅を繰り返し、数匹の蛾が残像と戯れている。 いつの間にか黒雲が太陽を遮り、今にも雨が降り出しそうな天候になってくると、路地裏はますます薄暗くなり、うらぶれた寂しい雰囲気を醸し始めた。 時折周囲の様子に目を向けながら、ゆっくりと歩を進めていき、路地に並ぶ貸家の玄関脇にある表札を確認していった。 事件後に外されたのか、元々そうであったのかはわからないが、四軒目の貸家だけ表札が外されている。 右隣の貸家との間の、体一つ入れるほどの狭い通路に視線が吸い込まれていくと、木枠から外れそうになっている窓の隙間から銘仙の羽織がぶら下がっているのが見えた。 直感的にこの家に違いないと確信した僕は、杉板とトタンの壁が続く路地の気配に注意深く目を配り耳を澄ませながら、こっそりと通路に入り、ちょうど胸の高さにある窓の木枠に手を掛けると、何度か強く揺すってみた。ガタン、という音と共に窓が木枠ごと外側に外れ、それを両手で抱えて、そっと足元に置き壁に立て掛けた。 四尺(百二十センチ)四方ほどの窓枠から、布団が敷かれたままになっている六畳間を覗くと、僅かに香水の匂いが漂ってくる。 もう一度周囲を見回した後、枠に両手を付いて体を持ち上げると足を掛け、畳の上に飛び移った。暗く水を打ったように静まり返った家の中で、一歩踏み出すごとに、ミシミシと足音が響き渡る。 中央にある掛け布団は半分捲れ上がり、敷布団には、今しがたまで人が寝ていたような浅い窪みまでが残っていた。その横には、荒くたたまれた長襦袢が置かれ、ふと目を上げると、北側の壁には桐の鏡台があった。そこに自分の姿が映っていることに気付いた瞬間、背後に薄っすらと人影らしきものが動いた。 心臓が激しく脈動を打ち始めたのを感じながら、咄嗟に軽く拳を握って身構えたまま背後を振り返った僕は、部屋の入り口に立っている黒のハンチング帽を目深に被った男の姿を視界に捉えた。 すると驚いたことに、その男は山崎刑事だったのである。 予期せぬ事態に動揺を隠し切れずにいた僕は、しばしの間、呆気にとられている山崎刑事の顔を、放心したようにただ見つめていた。 そして口篭りながらも先に口を開いたのは、山崎刑事の方だった。 「・・・森下さん・・・どうしてここに・・・?」 その疑問を投げ掛けたかったのは僕も同じで、目まぐるしく思考回路を働かせても、沙織の家に山崎刑事が忍び込んでいたということに対する答えを見出せずにいた。 「山崎さんの方こそ・・・何故です?ここで何をしているんですか?」 山崎刑事は、僕が沙織の家に来た経緯を察したと見えて、口元を緩め柔らかな笑みを浮かべながら納得したように二、三度頷いた。 「なるほど・・・例の探偵から沙織のことを聞いたんですね?それで、ご自分の目で確かめようと、無茶をなさったわけだ」 「殺されたことは、昨日の新聞を見て知ったんです。ええ、確かに・・・家でじっとしていることが苦痛になったんですよ。これ以上人が殺されていくのを、ただ傍観していることに、もう我慢が出来なくなったんです」 山崎刑事は、僕の表情をじっと窺いながら、黙って言葉を聞いていた。 「僕は住居侵入罪になりますね。ええ、わかっていますとも。でも僕はここから出て行きません。何か証拠を掴むまでは、あなたの言う無茶は止めませんよ」 「森下さん・・・私は、今日も非番なんです。それに、今仰ったことを私は聞いていないし、何も見ていません」 「まさか・・・自分の意思でここに?」 山崎刑事は、僕の問いには答えようとはせず、部屋の中を物色し始めた。 「あなたも向こう見ずなお人だ。僕のことを言えた義理ではありませんよ。それにしても、なぜです?・・・なぜここに来たんですか?」 「昨日、秦の妻君に会ってきました」 山崎刑事は背中を向け屈み込み、鏡台の引き出しを一つずつ開けながら答えた。 「妻君は、今病院にいます。昨朝、体調不良を訴えて入院されたんですが、これまでの経緯を全て聞きましたよ」 「あなたは以前、須美子の事件と秦とは一切関係がないと仰っていたではないですか。それを、なぜ単独で捜査をしようとまで思われたんです?」 「秦にはアリバイがあるとは言いましたが・・・職務上、胸の内に抱えていることを軽々しく口にすることは出来ないんです」 「それはいつからだったんですか?いつから秦が怪しいと思われたんです?」 「彼が殺されてからですよ。それに、こうして彼と関係のあった女までもが殺されましたからね。しかし、だからといって私一人ではどうすることも出来ません。須美子さんの事件との関連を裏付ける証拠がない限り、私の一存では如何ともしがたいのです」 「では山崎さんは・・・これらの事件が偶発的なものではないと・・・つまり、須美子の事件に秦が関与していると思われてるわけですね」 「女です」 鏡台の三段目の引き出しを見終えた山崎刑事は、立ち上がってくるりと向き直った。 「女?」 「そうです。これらの事件には必ず女が絡んでいます。秦が殺される直前、旅館に姿を見せた女・・・そして・・・ここで目撃されたもう一人の女・・・」 「まさか・・・ここに目撃者がいたのですか?」 「ええ。来て下さい。いずれにせよ、もう一度行くことになってますので」 静かに確信を得た表情で呟いた山崎刑事は、同じく窓から侵入してきたのであろう、窓のあった枠に足を掛けると、地面に飛び降り、僕もそれに続いた。 そして、壁に立て掛けてある窓を嵌め込んで、街燈の裸電球が明滅する暗い路地に戻ると、 「森下さん。ちょっと付き合っていただけませんか」 と山崎刑事が言った。 ちょうど貸家の裏手、メリヤス屋や印刷屋が建ち並んでいる道に出ると、山崎刑事はその斜向かいにある酒屋に入り、日本酒の一升瓶を一本購入した。 「それは?」 「これを届けに行くことになっているんです。まあ尾いて来て下さい」 怪訝に思いながらも再び先程の路地に戻って、沙織の家の東隣に建つ貸家の前に立った。 「森下さん・・・私は、ここでは刑事ではありません。沙織の知人です」 「偶然ですね。僕も船頭に同じことを言いましたよ」 「ここでは、森下さんは沙織の従兄弟になって下さい」 ふと家の脇に目をやると、縁台が置いてあり、その上には空の酒瓶が三本あった。 「ここの住人が証言を?」 「そうです。一時間程前に」 「酒飲みの男の一人暮らしですか?」 「いえ、ここも女の一人暮らしですよ・・・先月からですが」 山崎刑事がノックした引き戸の玄関ドアは、長年雨風に晒されているせいか、下部の方が朽ちていて、ほぼ中央には小さな穴が開いている。 ドアの向こう側から、こちらに近付いて来る足音が聞こえてきたかと思うと、その小さな穴から、住人が外の様子を窺っている気配を感じた。 しばらくすると錆びた真鍮の取っ手がくるりと回ってドアが開かれ、気だるそうに煙草を咥えた、四十がらみの櫛巻頭の女が姿を現わした。 だらしなく着崩したメリンスの着物はよれよれで、所々破けているが、僕の足先から頭の天辺まで、まるで品定めをするかのように観察する目つきには、爛々と、底知れぬ殺気のようなものが漲っている。 戻る 48へ |
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