地 獄 の 接 吻 (45)

 

「お呼びしても返事がなかったものですから・・・。どうされましたの?」
気だるく重くなった足を伸ばして立ち上がると、麗華の首筋に両腕を絡ませ、優しく甘やかな瞳を真っ直ぐ見据えた。
「いや、何でもないんだ・・・。ただ・・・」
「ただ・・・?」
答えを求めるように覗き込んできた瞳が少しづつ潤んできたのを見た僕は、薄く開かれた麗華の唇に指を触れた。
「恐ろしくなることがあるんだ・・・。何もかもうまくいきかけた時に、突然、闇の中へ引き摺り込まれる。これが一生続くんじゃないかと思う時がある」
「まあ・・・和真さん・・・」
聡明に輝く思慮深い眼差しを向けながら呟くと、冷えきった僕の体を引き寄せ、隙間がなくなるほどに身を合わせてきた。
「何もご心配なさらないで。ずっとあなたと添い遂げますから・・・。約束したじゃありません」
「君にはさっぱりわからないだろう。でも、僕も同じなんだ・・・。わけがわからなくなる・・・」
麗華に身を委ね、伝わってくる温もりの中で目を閉じた。
掻き乱されるような感情の渦を鎮め、深い喪失感を埋めてくれるのを感じながら、まるで子供をあやすかのように、髪を撫でる麗華の手の感触と、感情の揺れを感じさせない静かな吐息が、より一層安堵させた。
そしておもむろに顔を上げ、麗華の唇を塞ぎ更に強く抱き寄せると、そのまま畳の上に沈んでいき、彼女の名を口にしようとしたが、麗華の熱い唇が咽喉からせり上がってくる言葉を強引に押し戻した。
絡めた腕へ吸い付き、音を立てた唇は、労わるように僕の腕を舐め上げ、体の線に沿ってゆっくりと上下した。
形の良い唇の両端に綺麗な曲線を描いた微笑を浮かべながら、表情を確かめるかのようにじっと見つめる茶色の瞳は、濁りのない澄み切った美しい光を放っている。
その瞳に吸い寄せられるかのように、そして有りっ丈の思いをぶつけるかのように、僕は麗華の唇を貪り続けた。
紅い唇は濡れたように潤み、そっと掌が触れると、咽喉を逸らせて眉を寄せた麗華が微かな吐息を洩らした。雪のように白い肌が真珠を塗り込めたように輝いて見える。
「何て美しい肌だろう・・・僕が追い求めていた美の形体がここにあるんだ・・・永遠に手放したくはない」
「和真さん。この世の最期にわたくしだけを見て・・・。あなたに触れようとする人を遠ざけ、あなたの声が聞けないように耳を塞いで、あなたの名を耳にすることのない最果ての地へ、わたくしは追いやるのです・・・。そしてあなたと一体になるのです」
麗華の指先に力が込められ、僕の背中に激しく爪を立てた。
そこにどれほどの思いが込められていよう。それは抑え切れぬ感情の迸りであり、その痛みは歓喜を呼び起こした。
縁側の窓の向こう側から明滅する雷光が絡み合う二つの影を白い壁に映し出し、もつれる二つの肉体を青白く浮かび上がらせる。
叩き付けるような雨音は、外界から遮断された閉塞的な空間を包み込み、麗華の切願の囁きと肉体の擦れる音を掻き消した。
「雨が何もかも洗い流してくれるわ・・・」。
僕の耳朶を口に含みながら、熱い吐息と共に、か細い声音でこう洩らした。
「醜いもの全てを洗い流してくれるの・・・その後に残るのは真っ白なわたくしたちだけ・・・」
雷鳴がその後の言葉を遮ったが、僕には彼女の心の声が聞こえていた。
全てを洗い流してくれる。
本当にそうあってくれたなら、どれほど喜び得たことであろう。
麗華の温もりを確かめ、しなやかな肢体に埋もれていると、あらゆる雑念は振り払われ、穏やかさを持たらし、その意識の中を心地良い風が吹き抜けていくかのようだった。
そして麗華の囁きは静謐な空間に穏やかな波紋を広げ、優しく大らかに、僕を夢の世界へと導いてくれた。
 瞼を閉じ、時間がゆっくりと流れる静穏に身を預け、空間に溶け込んだ後は、もう何も憶えていない。
気付いた時には、雨はすっかり止んでいて、薄目を開けた先には、青白い月の光の、妖絶なまでの輝きが、縁側に座って外を眺めている麗華の漆黒の髪を照らし、肩から肌蹴ている浴衣から覗く乳房と、裾を乱した下肢の透き通るような白い肌を、淡く浮き上がらせていた。
僅かに見える横顔は、闇夜に浮ぶ三日月をじっと眺めている。
「・・・麗華。僕は寝てしまったんだね」
僕の声に気付いた麗華は、白皙(はくせき)の頬を緩めて微笑した。
「ええ。とてもよくお眠りになってましたわ」
「お陰ですっかり気分も良くなった・・・君のお陰だよ」
「今日は絵をお描きになりませんでしたわね」
「本当だ・・・ああ、そうだったね・・・」
「何でしたら・・・これから描かれますか。わたくし・・・今夜も和真さんと一緒に居たいですわ」
「寧ろそうして欲しい。君さえ良ければね。それに・・・これから描いたって構わない」
「まあ・・・うれしいわ」
麗華は椅子から立ち上がると、心地良い芳香を漂わせながら、僕の傍らにそっと腰を下ろし、懇願するかのような表情で言った。
「描いて下さるの?」
「うん、そうだ・・・描こう。夜も描いてみたい。昼の君とはまた違った顔を持つ君を・・・白昼では見えないものが、月光の中でのみ、忽然と姿を現す君を・・・描いてみたくなった」
「ああ、和真さん、とてもうれしいわ」
「・・・そう、夜も君を描き続けるんだ」
麗華は熱情的な口づけをした。
永遠に思える夜はとても静かであった。

 

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