地 獄 の 接 吻 (44)

 

 麗華が自宅に来て制作を始めるまでの間、つまり午前中は、段取りや精神的準備のために費やされる。
長時間アトリエの中で裸の麗華と差し向かいになりながら、皮膚を通して感情の動きが全て読み取れるように、そして、人体の複雑な色彩、微妙な起伏、線、堅さ、柔らかさ、滑らかさといった構成の美しさを的確に捉えられるように、その全てに情熱を傾けるために、精神的準備というものが必要なのであった。
一つの空間の中で毎日同じ戦いを繰り返し、無言の時間の流れの中で燃焼する、二人のエネルギーが、最高の形となって結実させるためにも、それは必要なのである。
ヴィーナスのように限りなく美しい麗華の肉体。万物の中でこれほど表現力に富んでいるものが他にあるだろうかと思わせる裸身を、カンバスに描いていく作業にどれほどの情熱を傾けていることか。
麗華もまた、単なる見られる存在、自然の肉体を持ち合わせるだけの存在ばかりではなく、共同制作者であり、彼女の気迫に呑まれて仕事をしていると自覚することも、度々ではなかったのである。
 その日の午前中も、僕はいつものように仕事の準備のために時間を費やしていた。
麗華を描ける喜び、最良のモデルに出会えたことの喜びに満たされながら、午後の作業に向けて徐々に気分を高めていく時の流れは早く、充実したものがあり、実に繊細で優美な緊張を孕(はら)んでいる。
アトリエの東南の窓の前に立ち、昨夜まで降り続けた雪の銀世界が広がる長閑な風景を眺めながら、そんな有意義な時間を一人過ごしていたのだが、突然階下から響いてきた声によって、集中していた思考が断ち切られた。
多少の苛立ちを抱えながら階下に降りて行くと、玄関口に立っていたのは家主で、藤城から呼び出しの電話が入っているという。
家主の自宅へ行き、廊下の壁に掛けてある受話器を取ると、神妙な響きを帯びた藤城の声が聞こえてきた。
「昨日、約束の時間に沙織の家を訪れたのですが・・・行方を眩ませたようなのです。忽然と姿を消してしまいました」
「何ですって?」
「沙織が働いている小料理屋へ問い合わせたのですが、何の連絡もなく、昨夜は無断で休んだようです。女将が女中に様子を見に行かせたところ、部屋は施錠されておらず、中の様子は殆ど手付かずのままで、金や衣類などの私物がそのまま残っていたそうです」
背筋を這い上がってきた嫌な悪寒は、とてつもなく不吉な予感へと姿を変えていき、痺れるような疼きが体の奥底からじんわりと侵食してくる感覚に激しい眩暈を覚え、しばらく何も言葉を発することが出来なかった。
「・・・一昨日の夜から、ずっと雪が降り続けていましたからね・・・藤城さんと昨日会う約束をしていたというのに、あの天候の中を一体何処へ・・・。沙織は、事件に巻き込まれた可能性はありませんか」
「ええ、その可能性は充分にあります」
「ひょっとすると犯人は、沙織が秦の家を訪れたことを知って・・・窮地に追い込まれつつあることを察知したのではないですか?まるで・・・昨日・・・藤城さんが会うことになっていたのを知っていたかのような・・・」
「沙織は事件に巻き込まれたに違いないと考えています。もしかすると、既に殺されているかもしれません」
「藤城さん・・・沙織の行方と併せて、例の愛姫という女についても・・・徹底的に調べてもらえませんか。ますますそいつの存在が・・・気になって仕方なくなりました」
 電話を切り自宅に戻った僕は、抑えきれない怒りと、あらゆる感情を麻痺させ冷淡にさせる恐怖心が混在する、複雑極まりない感情に翻弄され、すっかり落ち着きをなくしていた。
足元から灰色の靄が這い寄り始め、徐々に身体へと纏わり付いていき、手探りをしなければ何も見えないような精神状態に陥っていく。
しばらくの間、白い壁と天井をぼんやりと眺めている内に、様々な記憶が脳裏へ蘇り始め、終わらぬ悪夢の続きが生むこの怯え、忍び寄る黒い影を頭の中から追い払えないことの絶望感に、完全に侵食されようとしていた。
このまま裸婦画の制作に臨むことは到底適わない。
そう思った時、スモックを脱いでシャツ一枚になり、準備を整えていた画材もそのままに、一階に降りると、縁側の椅子に深く座り込んで、暗澹たる気持ちのまま、ぼんやりと外を眺めた。
ぽつりぽつりと、静かに、まるで僕の心を映すかのように雨が降り始め、暗い灰色に染まる空の下で、赤茶けた木々の葉が雨粒を受けて震えている。
雨に煙る庭は、いつもならば心地良い静寂を感じさせ、心を和ませてくれるものだった。うっとりと雨の音に聞き惚れ、所々に咲く小さな花が雨に打たれながらも、凛とした勝ち誇ったような美しさに見惚れたものである。
しかし、今、雨に閉ざされた景観が僕に与えてくれるものは空虚感だけであった。
しばらくの間、椅子にどっかりと体を預けて物思いに沈んでいる内に、間近に馴染んだ気配を感じて顔を上げた。
いつの間にか傍らには、切なげに眉を寄せて見つめる麗華が立っていたのである。

 

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