地 獄 の 接 吻 (43) 「意外な事実?」 「妻君から聞いた話なのですが・・・二日前の午後七時頃、洋花柄の銘仙に、長羽織とショールを纏った、洋髪の若い女が突然訪ねて来て、身分も明かさないまま、秦に会わせろと激しい剣幕で詰め寄ってきたそうです。沙織と名乗ったこの女は、元は鬼怒川の温泉芸者で、昨年の五月、秦と知り合い見初められると、芸者を辞め上京、彼の伝手(つて)でカフェーの女給の職に就き、ゆくゆくは一緒に暮らそう、結婚しようなどと、尤もらしい美辞麗句を並べ立てられその気になっていたそうです。しかし、秦が東京に来る機会を捉えては、愛姫(あき)という名の女と交際を重ねている事実を知り、問い詰めた直後から姿を見せなくなったことに憤慨した沙織は、全てが白日の下に晒されることも厭わず、手切れ金を要求するため自宅に押し掛けたという経緯だったのです。つまり沙織は、秦が校舎復興の資金を私的流用したことで懲戒免職になったことも、失踪後飯坂町で殺されたことも、全く知らずにいたわけです。その後、妻君が聞いたところによると、本名を内藤沙織というこの女は、髪結業を営んでいる高崎市の実家に生まれ、親戚の家をたらい回しにされた幼少時代を経て、十七歳の頃、隣家の書生と駆け落ち同然で家出をし、鬼怒川へ辿り着いて芸者を始めましたが、後に男が別の女と関係を持った挙句失踪してしまい、沙織が失意のどん底にあった頃、秦と知り合ったそうです。現在は小料理屋で働きながら、深川でひっそりと暮らしています」 「次から次へと化けの皮が剥がされていきますね。言葉もありませんよ。学校の資金を流用していたのも、低劣な快楽に耽るためだったのでしょう。ところで、その愛姫という女は何者なのです?」 「それに関しては沙織が証言をしていまして・・・愛姫との逢瀬を知って問い詰めた際に秦が語ったところによると、沙織と出会う三ヶ月前、つまり昨年の二月頃、花月園のダンスホールで知り合った女だと白状したらしいのです。横浜の永真遊郭街に秦が姿を見せなくなった時期と合致するのは、間違いなく関連がありますね」 「沙織は、秦が愛姫と交際している事実をどうやって知ったのですか?」 「写真です。秦が肌身離さず持ち歩いていたらしい写真を、ある時偶然見てしまったのです。かなりの美貌の持ち主で、まるで深窓の令嬢のようであったと、沙織は証言していたそうです」 「藤城さん。僕はどうもその愛姫という女が気に掛かりますね」 「私もですよ」 「何とか、その愛姫という女を探し出せないものでしょうか。僕はそいつが何か知っているような気がしてなりません。いや、ひょっとすると・・・福島の飯坂町で目撃されていた謎の女というのは・・・愛姫である可能性はありませんか?」 「あり得るでしょうが、今はまだ何とも言えませんね。実は、私は明日の午後、深川へ行って沙織に会うことになっているのです。その愛姫なる女について、写真で見たことや耳にしたことを、詳らかに聞き出してこようと思います」 「そうなんですか。ぜひお願いします」 「それと、妻君の心労は目に見えて明らかですので、しばらくは彼女に会うことが出来ないかもしれません。ろくでもない事実を嫌というほど聞かされてきたわけですからね。よく今まで堪えてきたと思います」 藤城はそう言い終えると立ち上がり、やがて僕は玄関まで彼を見送ったのだが、その時ふと階段に目をやると、浴衣を羽織った麗華が中程に座り込み、裾から伸びるしなやかな太腿に両肘をのせて頬杖をついていた。その瞳には悪戯な微笑を浮かべている。 藤城は彼女の存在には全く気付いた様子もなく帰って行ったのだが、麗華もまた、藤城が何者であるのかを尋ねてこようともしなかった。階段に座って僕たちの会話を盗み聞きしていたに違いないと信じていたのだが、そんな素振りさえ見せず、浴衣の裾を翻(ひるがえ)し、淑やかな脚を覗かせながらスタスタと階段を上って行くと、アトリエに戻った僕を待ち侘びていたかのように、カンバスの前に座って爪を噛み、顔を僅かに傾げ、上目遣いでじっと表情を覗き込んできた。 そのいじらしい仕草に、胸が締め付けられるような思いであった。 「待たせたね」 「いえ、いいんですの。それよりわたくし、とてもお腹が空きましたわ」 「じゃあ今日はもう中断して、早めの夕食を食べに行こうじゃないか。どうだい?」 「まあ、嬉しい。よろしくて?」 麗華は両手で僕の手を包み込むようにすると、手のひらに頬を擦り合わせてきた。 「ずっと階段にいたんだね。氷のようだぞ」 「和真さん。わたくし、お蕎麦が食べたいですわ」 「わかった。じゃあ、服を着て用意してくれ。僕も下で着替えてくる」 乾いた風が吹き、どんより曇った冬空の下、自宅を出た僕たちは新宿へ向かうことにした。 高く冷たい空に吐きかける息は白く渦巻き、空気に溶けて見えなくなる。 絹の手袋に温かい息を吹きかける麗華にちらりと目をやると、鼻先が赤く色付き、冷やされた頬と耳朶も仄かに赤みが差していた。 襟、袖口、裾を黒のファーで飾り立てた真紅のコートと蛇皮の赤い靴は、くすんだ景観の中で鮮やかに浮き立って見える。 指と指を絡ませ手を繋ぎ、停車場までの道程を歩いて省線に乗り、やがて新宿で下車すると、新宿大通りを追分方面へ一町ばかり進んだ先の、三丁目界隈に、木造二階建の蕎麦屋があった。 コートを脱ぎ、スカートの丈が短いアフタヌーン姿になった麗華は、席に落ち着くなり、明日は仕事を休ませて欲しい、と言ってきた。 「明日は大切なお客様がいらっしゃるので、ぜひお前を紹介したいと伯父様が申しますの」 「へえ、そうなのか。うん、僕は全然構わないけど、誰なんだい、その大切なお客様っていうのは」 「活映座を経営なさっている会社の社長様ですのよ。でもわたくし・・・もう女優になることに興味がなくなりましたわ。だって、和真さんと出会ってからわたくし・・・すっかり変わってしまいましたもの」 恥じらいからであろう、俯いていた顔を上げた麗華の、嬉しそうに細められていく潤んだ瞳は魅惑的で、僕は理性が崩れ落ちていくのを感じていた。 「僕もだよ麗華。もう、君なしの人生なんて考えられない。一緒にいてくれるね?約束してくれるかい?」 「もちろんですわ」 人目をはばからず、テーブルの上で握り合った柔らかい手の感触を確かめながら、ゆっくりと握り締めていくと、その細い体を引き寄せ抱き締めたくなる衝動に駆られた。 全身から込み上げる歓喜が僕を満たし、それが永遠に続いて欲しいと心から願っていたのである。 蕎麦屋を出る頃には、外はすっかり夜の帳が落ちていた。 市電が行き交う大通りでは、沈黙していた夜店から灯りと共に酔客の賑わいが漏れ聞こえていた。 新宿停車場から省線に乗ると、麗華はそのまま白金台町に帰って行き、代々木停車場で下車した僕は、幻想的な雪の結晶がゆっくりと落下し始めたのを見ながら、自宅に戻った。 かつては自ら進んで孤独を求め、日々生じる苦悩と現実から逃れることばかりを考えていたが、誰もいない家がこれほど寂しく、心細いものなのかと痛感することが日増しに強くなっていたのである。 二階の寒々とした暗いアトリエで、カンバスを前に座り、完成間近の裸婦画にそっと手を伸ばす。 カンバスの中の麗華が、薔薇色に頬を上気させ、心の奥を覗き込む澄んだ瞳を潤せて優しく笑い掛けてくると、蕾のような唇がそっと開き、僕の名を呼んだような気がした。
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