地 獄 の 接 吻 (42)

 

 美貌に裏付けされた、物怖じしない、気高く自信に満ち溢れた麗華とは対照的な、硝子細工のように壊れやすい繊細な一面を垣間見せたあの夜以来、僕の愛の言葉によって確かな安らぎを得ることが出来たのか、退廃的且つ悲観的な一面を見せることは殆どなくなった。
その反動であろうか、捉え所のない、不思議で魅惑的な色香は弥(いや)増して、僕は一種の魔力の鉄鎖で繋がれたようにひれ伏し、堕ちていくことを無上の喜びとさえ感じていたのである。
 麗華があの夜になぜ僕を拒んだのか、そこにどんな理由が隠されているのか、何も知らされないまま、そして何一つ尋ねようともしないままに時は過ぎていった。
昼はアトリエで美しい肢体を誇示するモデルとなり、夜は柔らかな肌の温もりの虜にさせた。
無上の愛情の表出となる裸婦画は、麗華の人生における一瞬と、制作技術の発展の一瞬の、かけがえのない交差を達成し、時間と共に微妙に変化する色彩、感情、空間を、逃さず捉えた傑作と成り得る予感に満ちていた。
漆黒の髪、透き通った陶器の如く白い肌、綺麗に澄んだ淡い茶色の瞳、ほんのりと色付いた淡い桃色の乳首、そして、麗華の裸体を取り囲む、最も生命力を感じさせる血のような赤色は、内面から発する彼女自身の烈しい感情そのものである。
ぶつかり合い絡み合う様々な感情の起伏が、窓から差し込む光の中を舞う埃と共に篭った空気を跳ね除け、鼻をくすぐる油の匂いを掻き消し、僕たちの小世界をゆっくりと白に染めていくのを感じていた。
美しい麗華。愛しい麗華。
心の中でこう囁きかけながら、ひたすら絵筆を動かし続けていたのである。
 そしてかつての僕はいつの間にか、すっかり影を潜め、苦痛に苛まれ自暴自棄になることは、もはやなかったのだが、全く進展の見られなかった事件に、解決の糸口となる、僅かな光明が差したかのように思える知らせがあったのは、ちょうどアトリエで裸婦画を制作している最中のことであった。
階下から名を呼ぶ声に気付いた僕は、麗華に浴衣を着せ制作を中断し、玄関に降りて行くと、そこに立っていたのは、中折帽を被り、インバネスコートを着た探偵事務所の藤城だったのである。
「先生、大変ご無沙汰しておりました」
「お久しぶりですね。ここのところ何の連絡もなかったので、どうされたのかと思ってましたよ。何か新しい事実が掴めましたか?」
「ええ。実は、その件でお話を」
「ではどうぞ、お上がりください」
陽が降り注ぐ縁側の椅子に藤城を案内した後、二階のアトリエに戻り、カンバスの前に座って寛いでいた麗華に少し待っているようにと伝えた。
「お客様ですの?」
「そうなんだ。一時間ぐらい掛かるかもしれない」
「わかりましたわ。お待ちしてます」
麗華は僕の手を握りながら、じっと顔色を窺うような視線を向けていた。客人が誰で何の話をするのか尋ねてくることもしない。僕も敢えて話さなかったのだが、そこには微妙な心理的バランス、心の駆け引きがあるように感じられてならなかった。
二人の間に交錯するこの感覚は初めてのことではなく、須美子という妻がいたという事実だけは聞いていながら、いまだに着物や化粧道具がそのままであることに対して何の疑問も差し挟まない麗華と、それに対して一切説明することもしない僕との間に度々発生することがある。
つまり麗華は、事件に関することは何一つ知らずにいたのであった。
いつか話さねばならぬとの思いを抱えながら、出来るなら何も知らないままでいて欲しいと願っていた。麗華が尋ねてきてくれさえすれば、その願いを断ち切り、ありのままの真実を話す心の準備だけは整っていたが、自分から口火を切る勇気を持ち得なかったのである。
 「先生、今お仕事中ですか?」
スモックを着た僕の姿を改めて眺めた後に、眉間に皺を寄せて、相変わらず難しい顔をしながら藤城が尋ねた。
僕は向かい側の椅子に腰掛けると、庭で繊細に折り重なる葉の隙間から差し込む木漏れ日を見ながら足を組んだ。
「ええ、依頼を受けている作品がありましてね。毎日掛かりっきりですよ」
「少し痩せられましたね・・・顔色も悪いようですが・・・」
「これまでのどの作品よりも、極度に神経を磨り減らしながら描いているせいでしょう。気合が違うんです」
「なるほど。完成したらぜひ観せて下さい」
「構いませんよ。ところで・・・お話をお伺いさせていただけませんか?わかったことは一体何ですか?」
「その件ですが・・・」
藤城は手にしていた手帳を広げると言葉を繋いだ。
「秦が、福島の飯坂温泉で殺された当日、彼の部屋を訪れていた女がいたという話があったのを、覚えていらっしゃいますか?」
「ええ、勿論です」
「この女は、事件のあった当日、最寄の飯坂駅から、福島飯坂電車軌道線に乗って福島駅まで行き、一泊した後、東北本線に乗り、上野駅まで行ったということが、ほぼ判明しました。秦の妻君が、つい先日、飯坂警察署から同じ話を聞いたと言っていましてね。つまり、このルートであったという私らの調査結果と一致したというわけです」
「なぜそれがわかったのです?」
「飯坂町の温泉旅館の女中が証言した通り、秦のいる部屋を訪れた謎の女は、方々からの集客がある温泉街とはいえ、田舎の町ではひじょうに目立つ身なりでした。ここにも当時の証言をメモしてありますが・・・丈の長い外套に釣鐘型の帽子を目深に被って口元を襟巻きで覆った姿・・・外套も襟巻きも見るからに上等な手編みであったそうです。ですので、女が午後五時二十分頃旅館を出て、すぐに飯坂駅へ戻り、軌道線に乗って、福島駅へ戻ったという事実を把握することは、それほど難しいことではありませんでした。飯坂駅の車掌が、女が福島駅から午後三時三分発の軌道線に乗り、飯坂駅までやって来たことも憶えておりましたのでね。それで、女が福島駅から飯坂駅に来て、そして帰りも同じルートであったことが、わかったわけです」
「もしその女が秦を殺しているとすれば・・・いえ、僕はそう信じて疑いませんがね・・・そんな凶行に及ぼうとしている時に、嫌でも目に付くような上等な格好をしているところなど、自己顕示欲が余程強い女だと言わざるを得ませんね」
「仰る通りです。殺人犯というものは、墓穴を掘りかねない極端に悪い面を持っているものですよ。思いも寄らぬ所で妙に大胆になっていたんでしょう。さて、話の続きですが・・・」
藤城は手帳を捲って一呼吸置いた。
「女はその夜、福島駅を降り雪の降りしきる市内に出た後、陣屋町にある『曾根田』という旅館に一泊しています。そこの主人からも当時の状況を聞き出せましたが、やはり女は帽子を深く被り、意識的に顔を隠すように襟巻きをしていたため、人相をはっきり確認することが出来なかったそうですが、言葉遣いや立ち居振る舞いから察するに、相当な教養を身に付けた女ではなかったかと、そんな印象を強く持っていたようです」
「ということは、誰一人として女の人相を見た者はいなかったということになりますね」
「残念ながら、現時点ではそういうことになりますね。しかし・・・今日は、もっと重要な話をするためにお伺いしたのです。思わぬところから、意外な事実が判明しました」

 

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