地 獄 の 接 吻 (41) 酒の酔いは、千駄ヶ谷に着く頃には殆ど醒めてしまっていた。 店を出てから一緒にタクシーに乗り込んだ麗華に、伯父の家に帰ることを勧めるでもなく自宅に連れて帰ったのは、心の奥底でずっと抱いていた欲望を満たしたいとの思いから、逃れることが出来なかったからである。 しかし、僕にとってそれは些細なことに過ぎなかった。 時間を共有しながら、安息の境地へと誘(いざな)ってくれることで充分過ぎるほどであったのだが、その気分に静かに浸ることを許さなかったのは彼女の方だったのだ。 家に入り、落ち着く暇も与えぬまま、僅かに開いた障子から差し込む蒼白い光が、視界を蒼く染め上げていく中で、僕の髪を掻き上げながら細い両腕を首に回し、強く引き寄せては顔を埋めてきたのである。 吐息と共に柔らかい舌を伸ばし、荒々しい動きで顎へと伝って耳朶に絡み付くと、それは顔をなぞるようにして徐々に這い上がっていき、口の中にもぐり込んできた。 体の中に溜め込んでいた欲望の渦が全身を貫いていくかのように、声を漏らし細い肢体を仰け反らせた麗華の瞳は快楽に潤み、欲望が煌き、淫靡な笑みが浮かんだ。 静脈が薄く透けて見えるほどの、蒼い月光に照らされた雪のように白い肌は、身を焦がし狂わす熱で桜色に染まり、愛を囁くだけで頬は朱に染まっていく。 暖かい温もりと、静かな鼓動が肌を通して伝わってくる細い肢体を露にさせ、這うように唇を押し当てていき、震える麗華の小さな唇と重ね合わせた。 麗華は自らの唇を噛んだ。真っ赤な血が、静かに、ゆっくりと滴り落ちていく。柔らかな唇の感触と不釣合いな鉄の味に、僅かに眉を顰めた僕は、それを指で拭った。 「いつか言ったが・・・僕はずっと以前に君に会っているような気がする・・・。君とこうしていると、余計にそう思えてくるのはなぜなんだ・・・」 「そんな話はお止めになって・・・」 麗華は接吻を避けるようにして顔を逸らすと、首筋に唇を強く押し当て歯を立てた。 「わたくしはずっとこうしていたかったのです。ずっと・・・あなたと出会ってからずっと。どれほど待ち焦がれていたことか・・・もうあなたと一緒。ずっと一緒です・・・離れないわ・・・」 「僕も望んでいたさ。君といると何もかも忘れることが出来る。君なしではいられないんだ」 首の後ろに回していた細い指先に力を込めると、麗華は僕の背中に爪を食い込ませてきた。掻き毟られた背中は幾度とない爪の往復で、冷たく刺すような痛みが体を突き抜けた。 指先に付着した微量の血を、麗華は僕の眼を見つめながらゆっくりと舐める。 深紅に染まる唇、紅く濡れた舌、妖艶な眼。長い睫毛が白い肌に濃い翳を落としている。 「ねえ・・・ルドルフ皇太子とマリー・ベッツェラがなぜ死んだのかご存知?」 両手で僕の顔を包み込み、心の裏面を探るような視線を向けながら、唐突に尋ねてきた。 「三十年以上も前の話だろう・・・当時ですらわからなかったことが、今わかるわけがない。もはや如何ともすることは出来ないだろう」 「わたくしにはわかるのです・・・ルドルフをマイヤーリンクで、本気で死ぬ気にさせたのはマリーなのだわ。ルドルフはマリーの破滅へ向かう情熱の余波を受けたに過ぎないのです。マリーは彼に殺して欲しかったのです」 「ルドルフは、元々自殺する気などなかったというのか?」 「あるものですか・・・ああ、愛する人に殺されるってどんな気分なんでしょう。愛する人の手によって殺されることが、永遠の時の流転の渦中に、その動かし難い真実が永久に刻み込まれるのです。マリーは永遠にルドルフと一体となったのだわ。別離の予感の苦痛に身悶えするぐらいなら、いっそのこと、マリーのように殺された方がマシ。和真さん・・・あなたは、わたくしを殺せて?わたくしがそう願った時、ひと思いに殺せて?」 「馬鹿な・・・君を失うことなんて考えられない」 麗華は体をずらして、上に覆い被さっていた僕を横たえさせると、哀願するような、か細い声を発した。 「ひと思いに殺すの・・・八つ裂きにして欲しいわ。あなたの心が遠く彼方に離れて行って・・・わたくしの心がズタズタに引き裂かれるぐらいなら・・・わたくしを八つ裂きにして欲しいのです」 どんな些細なことも見出そうとするかのように、鋭い光を帯びた真剣な眼差しは僕を捉えて離さず、明らかに揺るぎない強い意志が込められた視線であった。 「何を言うんだ・・・君を殺すことなど出来やしない」 麗華は僕の腹の上に跨った。引き締まった太腿が肌に擦れる生々しい感触に身を任せ、鼻を掠めた仄かな甘い香りに幻惑させられた。 上半身を伏せて体を密着させてきた麗華は、艶かしい媚香を吐きながら口を開いて舌を出すと、首筋をなぞり、間断なく接吻を繰り返してきた。 「いえ・・・その時がきたら、きっとあなたは、わたくしを殺して下さるわ・・・肉を裂かれ骨を砕かれても・・・それでも尚、わたくしはあなたの中に生き続けるのです・・・」 止め処なく溢れる愛しさと、心の奥底から湧き上がる、黒い性的欲望との狭間で揺れ動く、微妙な葛藤が胸奥で渦巻いていた。 「そんなことは僕には出来ない・・・なぜなら君を失いたくないからだ。約束する・・・君は僕のものだ」 僕は麗華を抱きしめた。 「ああ・・・和真さん。この時をどれほど待ち望んでいたことでしょう・・・あなたはもうわたくしのもの・・・末永く添い遂げますわ。このままあなたと溶け合いたい。何もかもドロドロになって溶け合って、あなたの血はわたくしの肉となって・・・わたくしの血はあなたの骨となって・・・一緒くたになってしまいたいのです・・・誰にも邪魔させるものですか・・・」 「麗華・・・」 肌の緊張を探り、左手を腹部に滑らせ、そのまま絹の下着の淵に人差し指を引っ掛け、ゆっくり引き下ろしながら、浅い骨の生み出す窪みに伸ばそうとした。 なぜかはわからない。何がそうさせたのかはわからなかったが、麗華は咄嗟に体を引き離すと、月光の届かぬ暗い部屋の隅まで後退りして、うずくまってしまったのである。 「麗華・・・いいんだ・・・君が嫌ならば・・・」 「違います・・・ただわたくし・・・恐いだけなのです・・・」 「恐い?僕が恐いって言うのかい?」 「いえ・・・あなたにとって憎むべき女になることが恐いのです・・・」 黒く塗り潰したような部屋の隅でうずくまる麗華の表情は、何一つ窺い知ることは出来ない。途切れそうな震える声を発する影、黒々とした塊が、そこに存在しているという風であった。 僕は手を差し伸べて、窓から差し込む蒼い月明りの下へと誘(いざな)った。 「さあ麗華・・・何も恐がることはない・・・今夜はここで一緒に寝よう・・・何もしない・・・君が望むなら。僕は君と一緒にいれるだけで幸せなんだ」 更に近づいて行くと、麗華の白い手がゆっくりと宙を漂って、僕の腕を掴んだ。暗い部屋の一角から、月の灯りだけを纏(まと)った白い肌を現わし、ぼんやりと薄明るい空間の只中に体を泳がせ、力なく倒れるようにして僕の胸に縋り付いてきた。 「僕は何も聞かない。君がどうあろうとそっとしておく。でも、必ずそばにいる」 「和真さん・・・お願いです、ずっとこのままでいて・・・このまま強く・・・わたくしを・・・もっと強く抱きしめて・・・息が詰まって何も考えられなくなるまで・・・もっと強く・・・」 不安定でめまぐるしく変わる感情の波を、抑制することも出来ぬまま翻弄されている可哀相な麗華。破滅的な感情の源泉が、心に蓄積された膿のようなものであるならば、僕がそれを放出させればいい。 こう静かに囁いた。 そして麗華が目を閉じて、やがては穏やかな寝息を立てるまで、肌の温もりの中に抱き続けていたのである。
戻る 42へ |
著作権について
本ウェブサイト内のコンテンツの著作権は、作者個人が保有します。 許可なく複製、転用などの二次利用を禁じます。
Copyright (C) 2007 Seiren Takeshi. All Rights Reserved.