地 獄 の 接 吻 (40) やがて一時間ほどで映画が終わり、同時封切りの作品には何の興味もない麗華と、堪えられぬ臭気と時間の空費から早く逃れたいと思っていた僕との意見が一致して、さっさと帝国館を出ることになった。 「エラがハリウッド女優になれて本当に良かったですわ。でも、和真さんは退屈なさってましたわね」 外の空気を肺一杯に吸い込んでいた僕に麗華が言った。 「どうも僕には、ああいう非現実的な夢物語は苦手なようだ」 「まあ、和真さんったら。そんなこと仰らずに、もっと楽しくご覧になった方がよろしいわ。最後にエラとウェイトが結ばれて、わたくし安心しましたもの。結ばれぬ恋なんてよろしくないですものね」 潤んだ瞳で上目遣いに見つめ、様子を窺うようにしながらこう言うと、朱に染めた顔に悪戯な笑みを浮かべ、小さな手を伸ばしてしっかりと僕の腕を掴むと、体に引き寄せた。 僕たちは興行街を北に向かって歩きながら、途中六区の中央にある五叉路を右折して、美術学校に在籍していた頃、頻繁に写生に訪れていたひょうたん池の周囲を散策し、動物が観たいと言う麗華のために花屋敷へ行ったのだが、震災の打撃をいまだ引き摺っているためか、以前とは比べものにならぬほどの廃れぶりで、入り口から奥へと続く薄暗い通路では、電気人形が不気味に動き回り、鳥獣店では砂まみれのインコが泣き喚き、誰もが横目に通り過ぎて行く閑散としたメリーゴーラウンドでは、係の女給が椅子に寄り掛かって居眠りしている始末であった。 華やかな色のテントの下で、誰も乗っていない木馬たちが、軽快なメロディに合わせてぐるぐると回っている。 すると、麗華は女給を起こして金を払い、まるで童心に帰ったような笑顔を浮かべて腕を引っ張ると、脇目も振らずに、回転する床に合わせて上下する、白塗りの馬に向かって歩き出し、僕がその中の一台に飛び乗ると、すかさず同じ白馬に跨った。 体に寄り掛かっては、僕の表情を確かめるかのように、やや半身を仰け反らせて見上げる麗華の顔は、心底嬉しそうに、花のような笑みを浮かべ、心からの言葉をくれていた。 体に両腕を回して支えてやりながら、水晶のような瞳をただじっと見つめていたのである。 そこはゆっくりと動いていく世界であった。 周りの世界が次々に変化していく。同じ所をぐるぐると、その風景は戻ってくるのだが、徐々にメロディが遠ざかっていき、この場所から何処か遠くの方へ運ばれて行くかのような、不思議な感覚になった。 優しい静けさを湛えた時間の中を、僕たちはゆっくりと回転している。何処かわからぬ場所をゆっくりと。 繋いだ手を重ね合わせ、絡み合う麗華の腕が僕の中に入り込み、一つに溶け合って、内側で少しずつ弾けていき、果てしない静けさに包み込まれた。その静寂の殻は、哀しい記憶を閉じ込め烈しい痛みを吸い込み、孤独を封印する殻であり、麗華だけが導き得る安息の境地であった。そこに留まっている限り、記憶の逆流に打ち破られることも、かつての地獄が容赦なく襲ってくることもなく、心の奥底に闇を閉じ込めることが出来たのである。 僕は麗華の体を更に引き寄せながら、下から覗き込む彼女の瞳に映る眩い光と共に、強く抱擁した。 メリーゴーラウンドの周囲には、いつの間にか立ち止まって僕たちを眺める人だかりが出来ていた。 ゆっくりと上下していた木馬がやがてその動きを緩め、ぴたりと静止するのと同時に音楽が鳴り止んで、僕たちは再び元の世界に戻ったのだった。 「とても愉しかったですわ」 僕の手に導かれるように床の上に降り立った麗華が、穏やかな微笑を湛えながらこう囁いた。 僕は彼女の腕を引っ張りながら、野次馬たちの間を縫うようにしてその場から離れると、西の空が真紅に染まって東の空が濃紺に沈み、メリーゴーラウンドが黒々としたシルエットに変わりつつある夕闇の迫った頃、花屋敷を後にしたのである。 「ねえ和真さん。お時間はまだおありでしょう?これから神谷バーへご一緒しません?」 色電気の灯りに彩られた街頭を歩きながら麗華が言った。 「僕は酒にはからっきし弱いんだが・・・まあ葡萄酒ぐらいなら何とかなるだろう」 「じゃあわたくしはデンキブランをいただきますわ」 「参ったな。君はひょっとして酒豪じゃあないだろうね」 「今夜はとても飲みたい気分ですの」 薄っすらと赤らめた頬を腕に摺り寄せてきた麗華の体温が、少しずつ伝わってくるのを感じた。 神谷バーへの道程を、僕たちは寄り添い、月影を踏みながら歩いていたのだった。 戻る 41へ |
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