地 獄 の 接 吻 (39)

 

 昭和元年が一週間で終わりを告げ、新たな年を迎えた次の日に、僕たちは浅草六区の興行街へ活動映画を観に行った。
丈の短い艶やかな絹糸のワンピースの裾からは細く長い脚が伸び、ボレロを羽織ったその上にミンクのファーコートを着て、ボンネット帽子を目深に被った麗華の姿は普段よりも一層華やかに見えた。
新調した背広を着ている僕とは不釣合いに見えなくもなかったが、何もかも忘れさせてくれる彼女との愉しいひと時を思えば、そんなことは全く気にもならなかったのである。
 澄み渡る冬空の下、所狭しと飾旗がなびき、色彩の濃い絵看板があちこちに掲げられている六区興行街は、娯楽の自粛から解放された人波で埋め尽くされ、活気と熱気、雑踏の塵芥(じんかい)の交差の中に僕たちは溶け込んでいた。
麗華の美しさは明らかに人々の目を引き、白い息を吐きながら口々に話題にしている紳士連がどれほどいたか計り知れない。
南から北へ向かって隙間もない雑踏の六区街を歩きながら、通りすがりの紳士連が見惚れていることを自覚しているはずの麗華は、周囲の視線を撥ね退けてしまう程の気高さ、コツコツと甲高いハイヒールの音を響かせる自信に満ち溢れた確かな足取りであった。
 南北を横断する興行街を、大勢の人が行き交う雑踏を縫って進んで行くと、金龍館や常盤座が建ち並ぶその向かい側に、コリーン・ムーア主演の「微笑みの女王」の絵看板を掲げた帝国館があり、千八百人の収容人数を超えるのは時間の問題ではないかと思えるほどの、長蛇の列が出来ていたが、松竹館との間の帝国館横丁を折り返して、再び入り口付近にまで伸びている行列は、距離にして優に一町もあるように見えた。
唯一人喪章を付けた案内係の女性が立っている最後尾を見つけ、麗華の手を引っ張るように急いで列に加わると、上映開始を待ち侘びる人垣に沿って歩くラムネ売りに、麗華が声を掛け一本購入した。
「ご一緒に飲みませんこと?」
子供のように上目遣いをして、無邪気な微笑を湛えながらこう尋ねた後、開栓し一口飲んで僕に手渡した。
時折、こうした無私なる振る舞いから滲み出る無邪気さと純真さに、戸惑いを隠せないことがあり、妖艶な色香で、感情を激しく揺さぶる魅惑的な色気を持ち合わせる麗華の不可思議な一面でもあったが、それが堪らなく魅力的だったのである。
僕たちの前に並んでいる人々の好奇の視線に晒されているのを感じながら、瓶に口を付けて飲んだ瞬間、聞き覚えのある声が、何処か遠くの方から聞こえてきて、辺りに目を泳がせると、江口氏が妻君を連れ添って近付いて来るのが視界に入ったのである。
「森下君じゃないか。まさかこんな場所で会うとは奇遇だね」
と言った後、チラッと僕の横にいる麗華に視線を移した。
「江口さん、奥様、おめでとうございます。三が日中に年始のご挨拶にお伺いするつもりでおりましたが、まさかここで出くわすとは思ってもみませんでしたよ」
妙な居心地の悪さに落ち着かなくなった僕は、出来得る限り動揺を取り繕うため、間髪を入れずに、帽子を目深に被った顔を俯き加減にしながら、僕の背後に半ば隠れるようにして立っている麗華を紹介した。
江口氏と初対面とはいえ、大胆で積極的で、人見知りせず、順応性に富んだ性格であるはずの麗華が、終始遠慮がちな態度で、言葉少なげに挨拶するのを見て、おやと思いながらも、一種の気まぐれから出た振る舞いなのであろうと気にも留めず、寧ろ彼女の知られざる一面を垣間見たような、新鮮な気持ちを抱いたのである。
「なるほど、モデルさんでいらっしゃいましたか。森下君、実に運が良かったね。依頼主が望んでいたモデル像そのままの女性を雇えたことは、幸運だったと言う他ないな」
江口氏は、僕と麗華を交互に見ながらこう言ったが、画家とモデルの関係以上のものを嗅ぎ取ったかのような視線を、眼鏡の奥から送っていたのを見て、さすがに困惑してしまった。
「ええ、僕もいまだに信じられない気持ちです。お陰でいい作品が出来そうそうですよ」
「昨年は個展も成功して、新規客も増えたことだから、今年は更に期待してるよ。ところで・・・あれから進展はないかね?」
江口氏のその言葉は、間違いなく事件のことを指していたが、麗華がいる手前、はっきりと口にするのも憚(はばか)られたのであろう。
着物姿の慎ましい妻君が、咄嗟に機転を利かせて、麗華に話し掛けたところを横目にしながら、
「はい、今のところは全く。藤城さんからも、特に連絡はありません」
と答えた。
「そうか。しかし・・・決して、絵画に対する意欲を失わないでくれよ。君は才能があるんだ。挫けずに制作を続けて欲しい」
「ありがとうございます」
江口氏は懐中時計に目をやると、麗華と会話をしていた妻君に声を掛け、
「森下君、六宮さん、ぜひ、素晴らしい作品を完成させてくれたまえ。じゃあ私達は行く所があるから、これで失敬するよ」
と言って、北の方角へ向かって歩き去って行った。
「珍しく緊張してたじゃないか。君の様子はいつもと違って見えたよ」
こう言うと、麗華は僕から瓶を受け取り、表情を緩ませながら、紅を引いた唇を瓶に当て、ラムネを飲み始めた。
 その直後になってようやく、列の先頭が帝国館へ入場し始めて、更に後ろへと伸びていた行列が、ぞろぞろと前へ前へと動き出したのである。
十分以上掛かって入場口に着き、下足を下足番に預け、我先にと観覧席の座布団の上に座った後、立ち見客で溢れる場内のスクリーンにタイトルが現れ、万雷の拍手が鳴り響くと、早くも煙草の匂いと煙が充満し、落花生や密柑の皮やらが周囲に散乱していく中、あちらこちらから売り子の声が聞こえ騒然とする状況下では、とても落ち着いて映画など観れたものではなかったのである。
「だから僕は活動映画館が好きじゃないんだよ」
と独り愚痴を零しても麗華は気に掛けることもなく、コリーン・ムーア嬢が登場する度にうれしそうな声を上げては僕の腕を掴み、
「ねえご覧になって。何てお美しいのでしょう」
と、終幕を迎えるまで興奮しきりであった。
欧米の映画女優の化粧やファッションを手本にする若い日本女性の例に漏れず、況(いわん)や舞台女優を志す麗華ならば尚更、憧れと畏敬の念を持って見ていたことは間違いない。
スクリーンの反射に照らされた麗華の頬が火照って、羨望の眼差しを向けていたのは、女優を志してハリウッドに行き、その夢を実現させた主人公に、もしかすると自分の姿を重ね合わせて観ていたからであるかもしれない。
僕はそんな麗華を美しいとさえ感じた。

 

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