地 獄 の 接 吻 (36) 彼女は一旦絵画を壁に立て掛け、白い布を被せた後、隣の棚にハンドバッグを置き、フェルト帽を脱いで、ウエーブのかかった断髪の、黒い漆黒の髪を露わにさせた。そして、銀の首飾、腕輪、耳飾を悉く外していった。 やがて、艶やかな黒のベルベットドレスを、ごく自然に、何の躊躇いもなく、実に優雅に脱いでいき、肌の白さをくっきりと際立たせている黒のコルセットに、すらりと伸びた細い脚を艶かしく見せる、ガーターで吊られた黒のストッキングと、脚の間に僅かに覗く、絹の下着も妖艶な黒であった。 それまでの麗華とはまるで別人のような妖しさ、美しい曲線を描く滑らかで完璧な肢体は、心地良い緊張感に包まれ思考を遮断させるには、充分過ぎるほどの見事さであったが、美を誇らし気にするでもない自然体の雰囲気が、清楚な品の良さを維持しているように感じられた。 麗華は更にストッキングを脱ぎ、コルセットと下着を外しては床に落としていった。胸は丸く形の良い膨らみで、コルセットから解放された腰も細く括(くび)れたままであるのを見て、彼女は僕にとっての理想的な女性美の体現者に他ならないであろうと、言い切れてしまうほどの完璧な裸身、美しい肢体であった。 裸婦画を描くのは初めての経験だったが、女性の裸体について知ったつもりになっていることを一切追放し、新鮮な眼でもって、生まれて初めて裸体を見る感覚で、麗華の体と接したのである。 彼女は、そんな僕の反応を窺うような顔つきであった。 静かに次の指示を待っている風でもあり、しかし、裸体が視線に晒されていることには何の戸惑いも見せていない。 寧ろ神々しいまでの異彩を全身から放っているかのようであった。 僕はイーゼルの前に座って、麗華の美貌に圧倒されて心此処にあらずの不安定な感情のまま、カンバスの位置を調整するなどの下準備を進めていた。 「六宮さん・・・では、その辺りに立ってもらおうか」 カンバスの位置から丁度七尺(約二メートル)ほど離れた場所を指し示すと、麗華はゆっくりと近付いて来て、真っ直ぐ僕を見据えたままその場に立った。 「この辺りでよろしくて?」 と尋ねてきた麗華の声音は、それまでの心的距離を適切に保つための他人行儀的なものでなく、明らかにそこから一歩踏み込んだ、親しみのある響きを帯びていた。 その声音に導かれるかのように、心の隅にあった引っ掛かりを取り除くべく、 「六宮さん、その、先生というのはもう止してくれよ。森下でいい」 と言った。 「わかりましたわ。でも、せっかくですから、和真さんとお呼びしてもよろしいかしら?」 「好きなように呼んでくれて構わないよ」 「じゃ、私のことは麗華と呼んでいただきたいですわ」 嬉しそうに頬を緩め、首を傾げながら悪戯に微笑み、媚声を漏らす妖艶さが堪らず愛らしい。 僕はすっかり心酔させられ、麗華の美しさに取り込まれていく自分を認識しながらも、それを抑制しようとしなかったのは、この数ヶ月もの間、殻に閉じ篭り鬱積していたものが、一気に解き放たれたような開放感に浸れることの喜びを、そのまま味わっていたいと思ったからであった。 僕は椅子から立ち上がると、黙って立ち尽くしている麗華の周囲をぐるりとひと廻りし、いまだ決めかねているポーズをどうしたものかと思案した。 美しいポーズは、モデルのふとした動作の中から見つかることもあり、また角度によって全く違うものに見えるものである。 何回も周囲を歩き続ける僕を、麗華は瞬きを繰り返しながら追っていた。 「どの角度からお描きになろうか、考えていらっしゃるの?」 「ポーズだよ。いくつか考えていたんだけどね、君の体を目の当たりにしてから、もう少し分析する必要性を感じたんだ」 「こういうのは如何かしら?」 麗華は両手を頭の後ろで組み、やや腰をひねらせて、片足を前に踏み出して見せた。 「うん、悪くないな。そのままでいてくれ」 少し離れて真正面から観察したが、それでも納得出来かねたので、片足を上げて手を翳(かざ)してみたり、両手を腰にあてがって、胸を少し反らしてみたりしたが、なかなか上手くいかない。 もう一度直立ポーズをとらせ、足の位置を変えたり、重心を動かしては頭の方向を変え、下半身を動かし、上半身をひねらせるという変化を加えていきながら、どのポーズが美しく、それぞれがどのような表情を持つのか分析し、光線の方向を考慮した上で、また、麗華が自ら積極的にポーズをとったりするなどして、微妙に変えていったのである。 「そのままじっとしててくれ」 F四十号のカンバスに、僕はまず木炭で素描していった。 彫りの深い面立ち、二重瞼の大きな眼、高貴な鼻筋、妖しいばかりの皮膚の艶々しさ、少しも一様な線を持たないデリーケートな曲線、その滑かさ、軟かさ、光のヴェールを纏(まと)ったような白い肌、静脈の青、それらが結実してこの上ない美しさを形作っている。 静まり返った暖かいアトリエの中で、何物よりも強き美しさを示す麗華の裸身への熱い想いを視線に変え、その目が僕の指先に移ってカンバス上に動いていく。 それをじっと見つめる麗華の顔には、陶酔しているかのような表情がはっきりと浮かび、瞳は水際で揺らめいているような煌きを放って、僕たちが交感し合っていることの喜びを感じ取っている風であった。 「君は初めての仕事だから、すぐに根を上げるんじゃないかと思ったけど、そんなことないようだね。緊張と羞恥のあまりポーズに集中出来なくなるなんてことも、君には関係なさそうだ」 「ええ、平気ですわ。わたくしというものが描かれていくのを肌で感じていると、何の抵抗もなくなりますの」 こう言った麗華の顔は、薔薇色のヴェールに被(おお)われたように高揚していく。 「他の画家に取られる前に、君を雇うことが出来て良かったよ」 「わたくしには和真さん以外の方とお仕事するつもりはありませんもの」 「へえ、そんなことを言っていいのかい?僕との仕事が終わったらどうする?」 「絵を教えて下さるって仰ったじゃありません」 「その話か。君は本気だったんだね」 「まあ、ご冗談のおつもりでしたの?」 「おっと、腕のポーズが崩れてきたよ」 「やだわ和真さん、誤魔化すなんて」 眼尻でしばしば笑う眼、媚香を柔らかに漂わせるかのような、吐息の艶(なまめ)かしささえもが目に入り、カンバスに素描されていく麗華像にも、目に見えぬ空の変化が投影されていく。 その喜びを密かに感じながら、ふと時間を確認した僕は、カンバスの前から立ち上がって一息吐いた。 戻る 37へ |
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