地獄の接吻(35)

 

 目が覚めると雪が降っていた。
窓から外を見ると、重く曇った空からちらちらと舞い降りてくる白い雪が、既に自宅の前の道路や近隣の屋根の上に若干降り積もっていた。
雪を踏みしめながら歩く通行人の腕に喪章があるのを見て、もしやと思い郵便受から新聞を取り出すと、長らく病床に臥していた天皇陛下の崩御を知らせる記事が掲載されていた。
つまりこの日、大正十五年十二月二十五日は、昭和に改元された日でもあったわけである。
何気にぼんやりとその記事を読み進んで、他の紙面に目を通すと、飯坂町の温泉旅館の事件に関する記事がこの日も一切載っていないことに、僕は深い溜息を漏らした。
しかし、今日は、出来得る限り事件のことは頭から振り払おうと決め、モデルの麗華がやって来るまでの間、個展で絵を購入してくれた客からの手紙を読み、読書をしたりして過ごしていたのだが、そうしている間も、落ち着きなくそわそわして集中力を欠き、意味もなく部屋の中を行き来していた。
高々モデルが家に来る程度のことで、所在なげにしている自分を戒めたが、胸の奥がムズムズするようなこの感情の高ぶりは何なのか、緊張を漲らせているのは如何なる理由があってのことなのかと、やり場に困って焦っている内に、時間はあっという間に午後になってしまった。
 やがて一時になろうかという時分、麗華が家にやって来たのである。
「先生、今日はたいそうお寒うございます」
麗華は、衿を立てたオーバーコートにベルトをきりりと締めて、ハンドバッグを小脇に、茶無地のフェルト帽を被っていた。
雪はとうに止んで晴れ間が広がり、路上の雪も既に溶けて無くなっている。
「時間通りだね。結構。さあ、中に入って」
ハイヒールを脱いで部屋に入ると、高女出身で音楽茶を趣味に持つような花形令嬢からしてみれば、在り来たりの独立貸家も物珍しい部類に入るのか、墨を引いた眉を上げ大きな瞳を瞬かせながら、まるで無防備な小娘のように、浮き足立った足取りで、家の中を隈なく物色し始めた。
案内したわけでもない六畳間に、自ら入り込んで、庭を眺めたりするその行動は、遠慮というものを感じさせず、上品で理知的な雰囲気にそぐわない不自然な振る舞いであった。
「六宮さんにとっては異国を訪れたような気分かい?」
板間の台所に入って行く麗華の背後から、戸惑いつつもこう尋ねた。
「いえ、さようなことはございません。ただ・・・先生、このような馴れ親しみ易いお宅にお住まいでいらしたのかと、つい見入ってしまいましたの。ご無礼致しました」
麗華は手袋を外しながら詫びると、尚も感慨深げな表情で部屋の中を見回していた。
「僕は、震災の後にこの家が改築される前から住んでいるんだ。一時、実家に戻っていたけれどね」
「そうでしたの。この辺りはとてもお静かで、絵をお描きになるには最適な環境だと存じますわ。ところで先生、そのお召し物は何でございますの?」
麗華は振り返るなり、僕が着ている腰丈の薄汚れた白い上着を見て、不思議そうに尋ねてきた。
「これはスモックと言ってね。画家が絵を描く際に着るものなんだよ」
「まあそうでしたの。何をお召しになられてもよくお似合いでいらっしゃいますわ。絵をお描きになられるお部屋はこちらではございませんのね」
「うん、二階だよ。では行こうか」
階段を上がってアトリエに入ると、麗華はまたしても興味津々の体であった。
「こちらが先生のアトリエですのね」
「巴里の画家が住んでるような、洒落た屋根裏部屋を想像してたかい?あいにく、大きな窓も赤い屋根もない、ただの八畳間さ」
「いえ、素敵なお部屋だと存じますわ」
コートを脱ぎながらゆっくりと部屋を観察する麗華の眼差しは、白い布を被せ、壁に立て掛けている数十枚のカンバスに向けられた。
「先生、お願いがございますの」
「何だい?」
「先生のお描きになられた絵を拝見させていただけません?」
「うん、構わないよ。いくらでも手に取って見てくれ」
僕がこう言って布を剥いでやり、コートとマフラーを預かると、麗華は一枚一枚両手で大事そうに抱えながら、絵の細かな部分に至るまで熱心に鑑賞し始めた。
静かに絵画に見入る麗華の横顔を、下準備をしつつちらちらと横目で観察していたのだが、憂いを帯びた表情に甘い吐息を洩らしそうな唇、そして、カンバスを持つ優雅でたおやかな指先は、いくら見ても飽くことのない美しさであった。
絵画に何を思い、何を求めているのかはわからないが、端麗な顔立ちに、感慨深げな表情を浮かび上がらせるほどの何かがあるらしいことは、手に取るようにわかったのである。
「まあ、何て素晴らしいのでしょう」
僕の作品に目を落としたまま、心地良く響き渡るような声音で褒め称えた。
上辺だけの世辞でも何でもない、心底賛嘆しているが故の嫌みのなさを感じさせる響きである。
「先生、この絵は何処でお描きになられたんですの?」
「ああ、その風景画は実家の三島だよ。震災の後、向こうに二年ちょっといたんだけどね、その間に描いたものなんだ」
「素敵ですわ先生。何てお美しいのでしょう」
頬を紅潮させ声を弾ませながら手放しで称賛する姿に、僕は笑みを零さずにはいられなかった。
「六宮さんは絵が好きなのかい?」
と、アトリエの隅にあるストーブを焚きながら尋ねた。
「好きですけど、描いたことはございませんの。先生にお教えいただきたいですわ」
朱色に染めた頬を緩めて、笑いながら見つめるその瞳に、吸い寄せられていくのを感じながら、
「授業料は高いよ」
と冗談めかして言葉を繋いだのは取り繕うためであった。
「よろしいですわ先生。お約束していただけません?」
「いいだろう。でもその前に君はやらなければいけないことがあるよ。初仕事だろう?心の準備は出来てるかい?」
「ええ、いつでもよろしいですわ、先生」
「ではまず身に付けているものを脱いでもらおうか」
僕はカンバスを前に座ると、麗華にこう言った。

 

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