地 獄 の 接 吻 (33)

 

 年の瀬が迫ったこともあり、街中では慌ただしく行き交う人々の活気で溢れ始め、辺りの民家の窓々にも、忙しなく動く人影がぼんやりと映っていたが、そんな世の賑わいとは無縁であるかのように、個展を終えてからの僕は相変わらず意味のない絵を描き殴る孤独な日々を送っていた。
 裸婦画の依頼者である日下部氏から手紙が届いたのは、それから間もなくのことであった。
既に具体的な絵画のイメージが構築されていたのだろう、依頼内容は想像していた以上に遥かに細かいもので、サイズや色や下絵などの要望がない代わりに、裸婦像は年齢二十歳から二十三歳、断髪の耳隠し、細面の顔に大きな瞳、高い鼻梁に薄い唇、全体的に色白で体の線は細く背は五尺三寸(一六〇cm)程度、乳房や臀部の膨らみは小さいと仔細に渡る。
つまり、モデルへの強いこだわりは譲らず、一方で絵画の内容については全てを一任するとしているのには驚きを隠せなかったのである。
理想化した女性を永遠に留めて置きたいとする思いの激しさ故であろうが、裸婦画を一度も描いたことのない僕にとっては困惑せざるを得ない依頼内容だった。
良いモデルに巡り合うことすら難事中の難事であるのに、ほぼ固定化されたモデルを確保することの労力を考えただけでも気が滅入ったのだが、それを見越してのことであろう、谷中三崎町のモデル斡旋所に行くようにとしたためて、わざわざ百円札を同封していた。
画家や彫刻家であれば、モデルを必要とする際には必ず訪れる、東京市内随一の斡旋所を日下部氏が知っていたことは意外であったが、恐らく事前に調べていたに違いない。しかし、モデルを探すための時間と手間を考えただけで先が思いやられてしまったことは確かである。
 手紙を受け取った次の日に、早速谷中三崎町にあるモデル斡旋所へ向かったのだが、それも妙な義務感に駆られていたからに過ぎず、徒労に終わるのではとの深い諦念の溜息を落としながらの道のりで足取りは重かったのである。
 モデルを雇うためにかつて何度か訪れたことのある斡旋所は、正面外壁をモルタルで仕上げた看板建築の木造二階建で、震災後建て替えられていた。
入り口の横に座っている受付嬢に名前を告げた後、靴を脱いで板張の廊下を歩き、最奥の応接室へ向かう途中、若い畳の匂いのする十五畳ほどの和室を通り過ぎたが、そこでは二十人以上もの容姿端麗なモデルたちが集まっていて、美術家や画学生ら四、五人の男達の吟味する真剣な眼差しを浴びていた。
その様子を横目にしながら部屋にたどり着き、しばしの間椅子に座って寛いでいると、背広服姿の恰幅のいい口髭を生やした中年の男が入ってきた。
「これはこれはお久しぶりです先生。昨日はお電話を戴きまして」
人懐っこい笑みを浮かべては肉付きのいい大きな手を差し伸べ握手を求めてきた彼は、経営者の野々村という男である。
僕たちは卓子を挟み向かい合って腰を下ろした。
「しばらくです。ところで、電話でも伝えましたが、少し面倒な依頼を引き受けましてね。条件に合いそうなモデルはいますか?」
「勿論です」
野々村は得意そうに胸を反らして言うのだった。
「先生、実は驚きましてね・・・いえいえ、先生の要求に驚いたのではありませんよ・・・まさにぴったりの娘がうちにいましてですね。まるで先生、その娘をご存知だったんじゃないかって思ったぐらいですから」
「そうなんですか・・・それはまた・・・」
「先生もきっとびっくりされますよ」
「こんなことを言っては申し訳ないですが、殆ど諦めていたんですよ。そう都合よくいるはずがないと思ってましたからね」
「二十二歳という年齢もそうですがね、髪型から顔の作りから、身長、体型に至るまで、何もかも面白いほど合致するもんで、先生、その娘と何かこう運命的な糸で結ばれてるんじゃないか、なんて思いましてね。ハハハ、いやいや、それは冗談ですが、それにしても不思議なことがあるもんですなあ」
「だとすると、依頼主が一度ここに来た可能性も捨て切れませんね」
「いや、それはありません」
野々村はあっさり否定すると、僕に断ってから煙草に火を点けて、大きく息を吸い込み煙を吐き出してから言葉を繋いだ。
「その娘はうちに籍を置いてから一度だって座敷に入ることはなかったんですから。呼んでも何だかんだと理由を付けてですね、やんわりと断ってくるもんで、どういうつもりでうちに来たんだろうと思ってましてね。まあモデルは他にも沢山いるわけですから、その内暇が出来たら向こうから声を掛けてくるだろうと気にもせずそのまま放って置いたんです」
「なるほど。でも、今回はよく引き受けてくれましたね。裸体モデルなら尚更抵抗があるんじゃないですか」
「仰る通りです。いきなり裸から始めるモデルはそういません。切羽詰まった生活をしている娘ならあり得なくもないですがね。着衣と裸体は十五銭の差があるんです。そこに魅力を感じたのかどうか知りませんが、まあ先生、失礼のないようにしっかり言っておきますんで、どうか使ってやって下さい」
「その女性はもう来てるんですか?」
「そろそろ来る頃なんですがね。ちょっと見てきましょう」
と言って立ち上がりかけたその時、扉をノックする音が聞こえた。
野々村がこう声を掛けると、扉を開けたのは受付の女だった。
「只今いらっしゃいました。お通ししても宜しいですか?」
「うん、いいよ。入らせなさい」

 

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