地 獄 の 接 吻 (32)

 

 やがて個展は七日目の最終日を迎えた。この日の来場者はこれまでより極端に数が減り、午後になると僕と係員の二人だけが画廊にいるという時間が殆どだった。
そうして無事滞りなく個展を終えようかとする頃、西神田署の山崎、佐脇両刑事がやって来たのである。
彼らを外で待たせ、後片付けを済ませると、寒風吹きすさぶ宵の暗い中、僕たちは甲州街道を四谷停車場に向って歩き始めた。
「森下さん。秦の素行調査をしましたが、残念ながらやはり彼にはアリバイがありますよ」
こう切り出したのは山崎刑事であった。
しかし、僕の中では既に秦が単独で行った犯行ではないと信じていたので、然程驚く話でもなかったのである。
そんな僕の様子を見て取った山崎刑事は、拍子抜けしたかのようにやや口篭った。
「まず、須美子さんが行方不明になった十月四日ですが、仰る通り秦は妻君には内緒で欠勤しています。いつものように午前八時十五分頃自宅を出ると、大船駅から東海道線に乗り、市内に入って真っ直ぐ上野へ向かったようです。上野山下の、ちょうど省線の高架下にあるカフェーが十時に開店するのと同時に入って来て、珈琲とドーナッツを繰り返し注文し新聞や雑誌などを読みながら、午後十二時過ぎまで、つまり森下さんと美術館で会うまでの約二時間以上もの間、店にいたのを店主が記憶しているのです。長い時間居座っていたことと、かなり立派な体躯の中年紳士であったことから、強く印象に残っているそうです。それに・・・ご遺体が遺棄され、発見された十月五日ですが、確かに秦は学校にいましたよ。我々の方でも裏付けを取りました」
「まあ、これで諦めが付いたというものでしょう」
僕と山崎刑事の後ろを歩いている佐脇が嫌味を含んだ口調でこう言い放った。いまだに僕が真犯人ではないかとの疑いを密かに抱き続けているのではないかと思えるほどの、あからさまな不躾な態度は相変わらずである。
「初めからあなた達が少しでも聞く耳を持っていたなら、あいつだって殺されることはなかったんです」
「森下さん。それは違いますよ」
市電の十字路の辺りに来たところで山崎刑事が立ち止まった。
「見込み調査でただ突っ走る訳にはいきません。犯人の製造をして罪の衣を着せるのが警察の仕事ではありませんからね」
「そんなことはわかっています。しかしすぐに捕まえることは出来なくても、裏付けを取る絶好の機会はあったはずだ」
「根も葉もない言い掛かりですな」
佐脇が嘲笑的な笑みを薄っすらと浮かべた。
「じゃああなた達は一体何をしていたんです?須美子と僕の身辺を調べ、友人や知人に聞き込みし、実家に行っていただけではないんですか?他に何をしたんです?何一つ事実が判明していないではないですか。凶器も見つからなければ監禁されていた場所も割り出せない。須美子が川に遺棄された場所さえ特定出来ない。さあ、何がわかったっていうんですか」
鋭い目で僕を見据える佐脇の横で、しばらく口を噤んでいた山崎刑事が言った。
「森下さん。秦の件ですが・・・事態が事態だけに、確かに我々としましても、ただ指を咥えて傍観しているわけにもいかなくなりましたよ。しかし、これ以上の出過ぎた真似をすることは無理です」
「誰が何と言おうと諦めませんよ。正直申し上げて、僕のしていることが正しいのかどうかわからなくなる時もあります。しかし、もう自分でもどうすることも出来ない。確信を払拭することなど出来ないんです」
「探偵屋を儲けさせるのはあなたの勝手だ」
好きにしろ、というように佐脇は顎をしゃくった。
「ええ。そしてあなた達を非難するのも僕の勝手だ」
そして山崎刑事に向き直り、
「秦が美術館を後にしてからの足取りはどうなんです?そこが肝心なんですよ。僕の絵が何処へ行ってしまったのか、誰の手に渡ったのか・・・そこが知りたいんです」
と語気を強めたが、スボンのポケットに両手を突っ込んで尊大な態度を示している佐脇が口を挟んだ。
「知りたいと言われてもね、盗まれたわけでもない絵の行方を捜せというのは酷ですな」
「しかし、あいつは偽称したんだ」
「それが何だというのだね?え?秦の犯行ではないということがはっきりしてるじゃないか。それで充分ではないかね?そもそも秦が自宅を出る頃には既に誘拐されていた、つまり、秦では為し得ない犯行ということになりはしませんかな」
顎をくいっと上げ、口の端を歪める、傲慢な表情を浮かべた得意げな佐脇の顔をしばらくじっと見返して、秦には共犯者がおり、彼を殺した女がそれに違いないとの考えを口にしようとしたが、直前で思い止まり、そっと胸の奥に仕舞い込んだのである。
謎は錯綜し混迷の度合いを深め闇から抜け出せずにいる。僕は何としてもそこから抜け出さなくてはいけなかった。なぜなら、自分がどうにかなりそうで恐ろしかったからである。
「わかりました。恐らく佐脇さんの言っていることが正しいのでしょう。これ以上秦のことについては二度と触れません。ではこれで」
 凍て付く北風に心ごと奪われてしまうかのような夜であった。
白い息が靄のように視界をぼかしていく中、僕は四谷停車場に向かって足早に去って行った。

 

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