地 獄 の 接 吻 (28)

 

 僕は藤城を外まで見送った後、いつの間にか雨は止んだが灰色に垂れ込めた陰鬱な空を見上げ、体の中の衝動を吐き出すことなく、終わりのない不安に胸を突かれるような苦しみから目を逸らそうと努めた。
真実に近付こうとすればするほど謎は深まっていくばかりで、何もわからぬまま、ただ時間だけが残酷に過ぎ去ってしまうのではないか、そんな不安に駆られたのである。
 空が朱に染まって幻燈のような影を地面に落とし始めた頃、個展には仕事帰りに立ち寄る客で賑わいをみせ、その忙しさのお陰で憂鬱な感情の波に翻弄されることなく、この時だけは何もかも忘れて没頭することが出来た。
こうして開催期間中である一週間を無事終えられるようにとの一念は僕を支え、穏やかな平常心をもたらしてくれる。そうあって欲しいと願っていた。
 やがて個展は滞りなく初日を終え、二日、三日と過ぎ四日目を迎えた十二月十五日の昼時になろうかという時分に、出張先の大阪から戻られた江口氏が多忙の合間を縫って来訪された。
そして一緒に昼食を取ろうということになり、画廊の係員に店の場所を伝えた上で小一時間だけ客の対応を任せることにした僕は、江口氏と共に見附橋のはす向かいにある蕎麦屋に入り、席に落ち着くと、昨日までの個展の状況を詳らかに報告した。
「母が昨日また絵を買って行ったそうだね」
手にした品書きに鼈甲製の丸眼鏡を近付けながら江口氏が言った。
「ええ、そうなんです。僕の友人の大場君と一緒に写生をしに出掛けて描いた浅草の風景画を、大変お気に召されたご様子でした」
「新聞社は取材に来たかね?」
「初日に一社来ました。しかし事件に関わる質問ばかりしてきたので、忙しいからと言い訳してほうぼうの体(てい)で追い払いましたが」
「うちは輪転印刷機を扱っている関係上新聞社とパイプが太いが、そんなこともあろうかと案内状は出さなかったんだ。出すなら全紙に案内しないと妬む記者もいるから一切送らなかったんだよ」
「その方が安心です。ところで・・・奥様には電話で言伝しておいたのですが、初日に探偵事務所の藤城という人物が来まして、調査で明らかになった男の正体を教えてくれたんです」
「うん、聞いたよ。驚いたね。校長だっていうじゃないか。詳しく聞かせてくれないかね」
そう言われて僕が説明している時、何気なく江口氏の背中越しに目をやると、インバネスコートに中折帽という、三日前と変わらぬ服装の藤城が、店に入って来たことに気付いたのである。
最奥の席に座っている僕と目が合った藤城は、躊躇ない足どりで真っ直ぐ近付いて来るなり軽く会釈した。
「ここにいると画廊で聞きましたもので」
声を潜め深刻な表情を浮かべているのを見て、僕は尋常でない様子を察し思わず息を呑んだ。
「これはこれは・・・。ちょうど例の校長の話をしていたところですよ。何かわかったのですか?」
江口氏も只ならぬ事態が起きたのではないかとの予感を抱いたのか、眼鏡の奥の目を瞬(しばたた)かせながら問い掛けると、藤城は注文を聞きに来た店員が去った後、僕の隣に座り手提げ鞄を膝の上に置いて、こう切り出したのである。
「秦が死んだようです」
それを聞いた途端、愕然として背もたれに体を預け天井を仰ぎ見たが、途端に全身を鉛のような無力感が襲ってうなだれてしまい言葉を失った。
校舎復興のために募集した資金を流用したことで職を追われ失踪した秦は思い詰めて自殺したのだろう、こう思ったのは僕だけではなく、代わりに口を開いた江口氏も同様であった。
「何処で自殺を?」
しかし、藤城は静かに首を振るとこう言った。
「いえ・・・自殺ではありません。殺されたようです」
「殺された?」
江口氏が声を上げたのと、僕が身を乗り出したのとが殆ど同時であった。

 

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