地 獄 の 接 吻 (26) そして白いカンバスは、一分の隙もなく黒と赤で塗りたくられ、それはまさに這い回る混沌の渦中にいる僕の内的感情そのものであった。 描き終えたカンバスをイーゼルから退けると、新たなカンバスを置き、抑えきれない激しい感情を再び迸(ほとばし)らせようと、パレットに絵筆を付けて一気に殴り付けた。 僕の意識の中で蠢く形のないものを、眼を閉ざした闇の中で色彩のないものを、カンバスに向かって弾けさせる。 絵の具の飛沫が壁や床など至る所に飛び散ったが、僕は一向に気にすることなく、呪縛から解き放たれんと足掻(あが)くかのように、描いて描いて描きまくったのである。 そうして二枚目を終え、どっかりと腰を下ろした瞬間、背後から肩を叩かれたことに気付いて振り返った。 そこには、強張った表情を浮かべてカンバスを見つめる大場君の姿があった。 「玄関から呼んでも反応がなかったんでな。どうしちまったのかと思いきや・・・」 僕は絵筆とパレットを傍らの小卓子の上に置くと、急に疲労感に覚えた体を更に椅子に埋め、ぐったりと息を吐きながら、カンバスをつくづくと眺め苦笑した。 「大場君の抽象画みたいだろう」 「いいや、これは今の君そのものだ」 僕は声を立てて笑い、床の上に転がっていた酒瓶に手を伸ばしかけたが、大場君がそれを奪い取り、溜息を洩らした。 過去に一滴も口にしなかった僕が酒を飲まずにはいられない嗜癖の状態に陥っていたことは大場君も知っていて、それを心配し彼は何度も僕の家を訪れていたのである。 「もう酒はやめろ」 「・・・これでも確実に進歩したんだよ。絵筆を持っただけでも僕にとってはすごい進歩なんだ」 「ああ、わかってる」 「これから描きまくる・・・そして個展を開くんだ。後押ししてくれている江口さんに申し訳ない」 「じゃあまず酒を断て。それに泡盛屋にもカフェーにも行くな。ほら、郵便受に溜まってたぞ」 そう言って大場君は新聞だけ引き抜いて、僕の膝の上に郵便物を置いた。 それを一枚一枚手に取ってみると、最初に目に入ったのは須美子の両親からの手紙であった。 彼女の死後、東京にやって来た両親の嘆き悲しみようは尋常ではなかった。 愛娘を失ったどうしようもない苦悩、頭ではわかっていても現実には到底受け入れられない悲痛な叫びが、文面からも耐え難いほど伝わってくるのだった。 一時も心休まる日はない、ただ一心に犯人の逮捕を願うばかりだと震える文字でしたためられた手紙の大部分は、一向に進展しない捜査への不満と苛立ちで占められている。週に一度は届く手紙の文面の殆どがそうであった。 僕はそれを繰り返し読んだ後、その真下にある封筒を手にした。 「・・・またか・・・」 と思わず声に出して呟くと、新聞に目を通していた大場君が僕を見た。 「何だ?」 「一度断ったんだが・・・裸婦画を描いてくれとしつこく手紙を寄越す人がいるんだよ」 これで何通目であろうか。いつものように流麗な文字で綴られた文面には、僕の絵画に対する美辞麗句をこれでもかと言わんばかりに並べ立て、絵の具の付き具合から色彩のコントラスト、筆触に至るまでの借りてきたような褒め言葉の連続に、毎度のことながら多少の不快感を禁じえなかったものの、どうしても先生でなければならぬと訴える痛切な思いが伝播して突き動かされそうになる。 「やってみたらどうだ?」 「いや、個展が先だ。それから考えることにする」 「いい機会だと思うがな。今の状況から脱却するために依頼を受けてみるのもいいだろう」 「今は自分の欲求で描いていたいんだ。ただ自分のために描いていたい」 僕はそう言って、その依頼主からの手紙を小卓子の上に放り投げると、大場君はその上へ新聞を投げた。 「もう何処にも記事が載らなくなったみたいだな」 この大場君の言葉通り、事件当初はほぼ毎日のように「日本橋川の婦女殺し」と題して記事が掲載されていたものだ。 世間ばかりでなく警察当局者の記憶からも忘れ去られてしまうのではないかと危惧するばかりで、犯人捜索に就いての消息も新聞に出なくなってしまったことも消沈の極みであった。 最後に記事を読んだのは二週間前だったろうか、目に飛び込んできたあの「迷宮入り」の文字は、瞼の裏にくっきりと焼き付いて離れない。探偵事務所からも何の音沙汰もなかった。 歯軋りを立てるほどの憎悪と憤怒を抱えて無念の日々を送らざるをえないのは死ぬほど耐え難く、しかし須美子のことを思い返す度に生き続けなければならないという衝動の激しさに震え、絵筆を握りカンバスに殴り付ける自分との葛藤に、一生挑み続けようと決心せざるをえなかったのである。 「おい、晩飯でも食べに行こう」 大場君が黙ってカンバスを見つめる僕にこう言った。 「・・・いや、せっかく来てくれたのに申し訳ないが・・・このまま描き続けることにする」 「たまには外の空気を吸った方がいい。どうだ、明日一緒に写生に行かないか?個展のためにもう少し絵が必要なんだろう」 「・・・何処を歩くんだ?」 「そうだな・・・浅草から隅田川の土手を歩いて、三囲、水神の森、堀切辺りを写生してみないか。北海道から東京に来た当時はよくあの辺を歩いたものさ。なあに、描けなくったって気分転換になる。森下君に今一番必要なのはそれだ」 「・・・わかったよ・・・君がそこまで言うんだったら・・・やってみよう」 大場君はこの言葉を聞いて安心したのか、ほどなくして家を出て行った。 そして僕は、絵の具で汚れた手に再び筆を持つと、カンバスと相対し、狂ったように描き続けたのであった。 戻る 27へ |
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