地 獄 の 接 吻 (25)

 

しかし、それから二ヶ月、依然として犯人は特定されず、迷宮入りになるのではないかと不安は募るばかりであった。
 カンバスの中の須美子は嗚咽するばかりでますます僕を苦しめる。
犯人が見つからぬことへのやり切れなさは日に日に増していき、須美子の命を奪い悲しみの淵に陥れておきながら、何食わぬ顔で普通に暮らしているはずの犯人への憎しみが強くなる一方であった。
凶器さえ見付からない乏しい証拠の中から犯人に繋がる手掛かりは一切なく、見えない糸を手繰り寄せながら少しずつ事件の深層に迫っていくしかない現状を嘆くばかりだったが、あの男と事件との間に複雑に絡み合う見えない糸が存在しているのではないかとの疑いは常にあった。しかし事件に密接に関わっているとする証拠がない限り、人相書を基に全国へ指名手配するなどといった大々的捜索は期待するべくもなかったのである。
 警視庁では、顔見知りの犯行と見て捜査してきたが、僕や須美子の交友関係から遠い親戚まで、いくら念入りに調べ上げても該当する人物が全く浮上してこないので、新橋界隈の前科者、または通り魔による殺人の可能性も視野に入れ始めた。
そこで、僕の意見を支持してくれた江口氏は、一週間前、京橋の探偵事務所に人相書を作らせ捜索するよう依頼してくれたのであった。
なんでも、則之氏の事件で警察が捜索中の謎の女の正体が依然として掴めないことに業を煮やした江口氏が、その探偵事務所へ赴き捜索を依頼しているのだという。
 しかし、須美子の事件に対する警察の捜査に全く進展がなかったわけではない。
行方不明になった当日、代々木停車場から省線に乗って新橋まで乗車していたことは、数人の乗客の証言で明らかになったのである。
つまり須美子は、新橋停車場を出た直後に何者かの手によってさらわれたことになるが、停車場から市電乗り場に至るまでの界隈は通行人が多く朝の時間帯であれば尚更である。それにも関わらず目撃者が皆無であるということは、如何に周囲の目を引かずに遣り遂げたかということになり、生易しい度胸ではないはずだ。
物々しい雰囲気を出さないために力ずくではなく何らかの口車によって須美子を誘引し、それがあまりにも自然でありふれた光景であったため、通行人の記憶にすら残らずにいたのであろうか。
須美子が見ず知らずの他人から声を掛けられ、あっさり尾いていくはずがないことは僕が一番よく知っているし、もし赤の他人であったとするなら、実に巧妙に練られた用意周到な計画であったと言わざるを得ないだろう。
そしてまた、誘拐、監禁後殺害し川へ遺棄するという一連の犯行は、単独犯ではなく複数犯でなければ容易に為し得ないであろうことは想像に難くない。
 しかし問題は動機であった。
当初は、須美子の妊娠が根深く関わっているものと思われ、それに沿って捜査も続けられてきたわけだが、日が経つにつれ、妊娠の事実を犯人が事前に知っていたと仮定するのは困難であることがわかってきたのである。
そこで山崎刑事は、事件発生から一ヵ月後のある日、僕の自宅を訪れた際、あくまでも仮説だと前置きした上で、監禁中須美子が犯人に対して子供を宿していることを告げ、命乞いしたのではないかと言った。
「元々、犯人は須美子さんを別の方法で殺害するつもりだったのかもしれませんが、妊娠していることを須美子さんから告げられ、あのような凶行を思い付いたとも考えられます」
実に的を得た仮説だと思ったことも確かだが、同時にその光景を思い浮かべただけで居た堪れなくなってしまい、僕にとってはまさに地獄絵図そのものであった。
「森下さん。これは一種の猟奇殺人かもしれません。過去の判例に当て嵌まる犯罪ではなく、複雑怪奇なる事件のような気がしてなりませんよ」
山崎刑事のこの言葉は、僕の頭から終ぞ離れたことはなかったのである。

 

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