地 獄 の 接 吻 (24)

 

 「それは、俄かには肯定しがたいですね」
山崎刑事は言った。
漆黒の髪をぴったりと撫で付け、きりりとした太い眉の下の涼しい目が発する眼光は鋭いが、一見好青年風の若い刑事で、彼の背後にはもう一人、コールマン髭をたくわえた佐脇という名の中年の刑事が端然と立っており、じっと耳を傾けている。
それは須美子の遺体が発見された次の日の夜のことで、自宅を訪れた西神田署の山崎刑事と初めて対面したのである。
 雨に煙る庭に目を向けながら、縁側にある椅子に座って虚ろな心のまま話を聞いている僕に、山崎刑事は諭すように続けた。
「確かに、不可解なところや疑問が残ることは認めますが、しかし容疑者とするには決め手がありません。見込みだけでは不十分ですよ」
「ええ、そうでしょうとも。僕だってその程度のことはわかっている。でもどう考えたってあいつ以外には有り得ない」
「お察ししますが、現時点で容疑者と決め付けるのは尚早ですし、そこに固執していては他を見落としかねません。心当たりがないか思い出して下さい」
「思い出すも何も・・・須美子は誰かに恨まれるような人間じゃない。殺される理由など何処にもなかった。あいつを捕まえれば全てわかることです」
苛立ちを隠そうともせずにこう言い放つと、山崎刑事は唇を窄め、手帳に走らせていたペンを一旦止めた。
「検屍によれば、須美子さんのご遺体は浸潤状態から推して発見より一時間前、日本橋川の下流付近で遺棄されたものと考えられますが、今のところ目撃者はありません」
「ではなぜ下流付近だと?」
「潮の干潮で上流へ流されていたからです。昨年竣工した神田橋の橋台には流水のためのアーチ形の開口部があるのですが、そこを流れずに引っ掛かっているところを発見されたというのが実情です」
「死因は?やはり腹を引き裂かれて」
「そうです。鋭利な刃物で刺されたことによる出血多量死です。他に、手首と足首に痣があったのを確認しましたか?」
「ええ・・・見ました・・・」
「縛られたまま何処かで丸一日、監禁されていたと考えられます。胃の中に消化されていない食物もあったそうです。しかし、誘拐された場所や犯行現場などはまだ特定出来ていません」
山崎は手帳を一枚捲り顎を擦りながら小さく唸った。
「それと・・・須美子さんが妊娠していたことは知ってましたか?」
それを聞いた瞬間頭の中が真っ白になった。
意識が朦朧としてしまい、ただ空(くう)を見つめ、あまりの衝撃のために口がきけなくなってしまったのである。
しばらくの間重い空気が霧のように辺り一面を包み込んでいたが、その息苦しさを払拭するかのように、佐脇刑事がコールマン髭を指先で撫でながら初めて口を開いた。
「本当に知らなかったのですかな?」
僕は俯いていた顔をゆっくりと上げて佐脇を見た。
「何が言いたい?」
怒りの矛先を何処にぶつければよいのかわからぬまま、鬱屈した感情は捌け口を求めて嵐となりそうであった。
「妊娠したと聞いて快く思わない良人もいるそうですがね」
侮蔑の言葉に益々苛立った僕は、咄嗟に椅子から立ち上がりかけたが、それよりも早く山崎刑事が間に入って制止した。
「森下さん、落ち着いて下さい」
「僕を犯人に仕立て上げたいのか?見当違いも甚だしいぞ」
「森下さん。代々木の津田産院を知ってますか?須美子さんは殺害される三日前にそこで受診してます」
「・・・なぜそれを」
「診察券と領収証が手提げ袋に入っていたのです。院長には今日会ってきました。妊娠二ヶ月とわかるとひじょうに喜んで、夫がどういう反応をするか楽しみでならないから、話す機会をじっくり見計らって驚かせてあげたいと言っていたそうです」
砂漠のように渇き切った心を潤す一滴の透き通った純粋な水のように、須美子の言葉がみるみる浸透していくのを感じたが、それはすぐに消えてしまった。
僕を見定めるように凝視する佐脇刑事の目を真っ直ぐ見据えると、
「子供はどうなったんです?」
と語気を強めて尋ねた。
「残念ですが・・・」
答えたのは山崎刑事だった。
「・・・安置所で見たあのおぞましい傷は、そういうことだったのか・・・」
背筋に戦慄が走り嫌な汗が体中から滴り落ちていく。必死に頭の中を整理しようとするが一向にまとまらなかった。
「状況から判断しましても・・・強盗殺人や性的殺人でないことは明らかです。犯人は須美子さんの妊娠を知っていた可能性がありますから、そこに動機があるのかもしれません」
「そんな馬鹿な・・・誰がそんなことを」
「今、須美子さんの交友関係を中心に洗い始めているところです。心当たりのある人物はいませんか?」
しかし、いくら考えても、頭の中でまとわり付いて離れないあの男への疑念、犯人に違いないと信じて疑うことのない確信は少しも揺らぐことはなかったのである。
「須美子が話すとしたら、勤め先の友人しか思い当たりませんよ・・・嬉しさ余って話してしまうということもあるでしょう」
「なるほど。確か、尾張町の松坂屋でしたね。他にはどうです?」
「いや、今の時点で思い当たるのはそれだけです」
「わかりました。何か思い出したらすぐに連絡を下さい。必ず犯人を見つけます」

 

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