地 獄 の 接 吻 (23)

 

 あの残酷で惨たらしい事実を自分自身が受け入れるまで、どれほどの深い喪失感と破壊的な烈しい感情が心の中で交錯し渦を巻いていたことか。
苦痛だけが唯一の確かな感覚となって僕を打ちのめし、冷たい現実と妄想が混沌する中を死の巡礼者のように彷徨い続けながら、自分の愚かさを嘆いては悔やむ、切なさの残骸の中に埋もれていた。
 時には静寂が心を満たして、昔日の美しい記憶が浮かんでは、無常の時を映し出すその瞬間にだけ温かな薫りに触れられ、須美子を想った。
しかし、その心安まる時は呆気なく、瞬く間に暗闇の中へ放遂されて重き苦悩の鉄鎖に繋がれるのである。
心が切り刻まれ魂を抉(えぐ)られるような空しさ、身が引き裂かれ臓腑が爛れるような痛みに呻く闇の彼方から、どす黒い嘲笑が銅鑼の音の如く響き渡り苦悶の刃となって突き刺さる。
須美子を失った苦しみはこうして永久に続くのではないか、全ての時間が止まりし時に初めて静寂の中へと誘(いざな)われるのではないかと絶望的になっていた。
 人間は如何に死への恐怖に喘いでいても、死の瞬間に至れば例外なく恐怖感から脱却して心の平安を得るとは誰の言葉であったか、生者への慰めと死者へのはなむけのつもりかもしれないが、須美子は意識が薄闇に呑み込まれていく中でさえ終わりのない狂気の牢獄に囚われ苦しみながら死んでいき、絶望だけが残ったのである。
僕はその真実と向き合うことが出来ぬまま長い時を過ごした。
終わらない冬を終わらせるため、心の痛みを寡黙な冬の淋しい空の底に落とそうと、カンバスの前に座ったのは、惨たらしい事実を知ったあの日から二ヶ月も経過した後のことであった。
 寒い冬が牙を剥きかけていた。須美子はもういない、殺されたのだという現実に震撼し悲嘆することはあっても、また耐え難い寂しさを伴って消え入りたい程の何とも言えない感覚に襲われることはあっても、ぼんやりとイメージを膨らませカンバスに向かうことで、気を紛らわせようとした。
僕の心の複雑な内奥をきめ細やかに投影するスクリーンがカンバスであるならば、そのイメージを縦横無尽に描いていくしか生きる道はない。画家は絵筆を持たなくなると死んでしまうのだ。
このままでは僕も死んでしまうだろう、しかし須美子はそれを望んでいないはずであろうし、そのためにも描き続けていくしか、生きる道はなかったのだ。
 僕の心に巣食う怒り、嘆き、悲しみ、憎しみ、ありとあらゆる感情をカンバスにぶつけようと、絵筆と黒の絵の具で一杯になったパレットを持ち、ただひたすら描いた。
勢いよく絵筆に付けられた黒い絵の具が何の躊躇(ためら)いもなくカンバスに大きな帯を作り、優しく撫でることもせず、殴り付けるかの如く、何度も何度もカンバスに押し当て、思いの丈を込めようと無心になった。
白いデッサンの紙や使い切った絵の具などが一面に散らばっている床の上へ、絵の具がボタボタと音を立てて落ちていくのがわかったが、そんなことは一切意に返さず、まるで何かが憑依したかのように、カンバスを黒く塗り潰していくことが目的であるかのように、漆黒の闇をみるみる広げさせていった。
絵筆を持ち替えると次に赤色の絵の具を出し、底無しの闇を取り囲むようにして塗りたくっていく。
その力の込め方は尋常ではなく、抑えきれない凄まじいばかりの感情が絵筆を介して一気にカンバスにまで迸(ほとばし)り、激しく散っても尚燃え滾(たぎ)る火の粉を見るようであった。
そしてその闇の向こう側から、ぼんやりと須美子の幻影が突如現れて、悲しげな眼差しで僕を見るのである。
須美子。もうあれから二ヶ月が経った。君をあんな酷い目に遭わせたのは一体誰なんだ?なぜあんな無残な殺され方をしなければいけなかったのだ?
絵筆を走らせながら何度も問うた。
犯人は誰なんだ?あの男なのか?須美子、どうなんだ須美子。

 

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