◆本郷森川町

 本郷通りを挟んで、東京大学の向かい側にあったのが森川町で、現在は本郷○丁目という住居表示になっています。
文士が好んだ町としても知られ、樋口一葉は赤門の向かい側の法真寺境内の東隣の屋敷に、4歳から9歳まで住んでいました。
また、徳田秋声もこの辺りに住んでいました。
 尚、作中に登場する江口社長の邸宅のある土地は、道順に沿って行けば、明治38年(1905年)に建てられた木造3階建の学生下宿の建物「本郷館」のある坂道を登りきった場所(文京区本郷6−10−12)ということになりますが、実際ここには当時、蓋平館(がいへいかん)別荘があり、そこに明治41年(1908年)、石川啄木が住んでいました。
当時の建物は1954年(昭和29年)に焼失、現在も旅館太栄館という名前に変え営業しています。

写真(上)は、写真家・木村伊兵衛の「西片町附近」(東京・本郷森川町)です(1953年に撮られた有名な写真)。

 

 

写真(下)は、現在の「本郷館」の姿(筆者撮影)。築103年。今も人が住んでいます(2008年2月現在)。

『新たに開発された高速輪転印刷機の視察のために、亜米利加と独逸へ出張していた江口製作所の社長宅へお伺いする機会を得、本郷森川町へ行くことになったのは、それから数週間後のことであった。』
<第二部(16)より>

 

◆ 荒木山

 現・渋谷区円山町です。明治末期頃から料理屋、芸妓屋、待合茶屋が増え活気を見せるようになり、花街として発展していきました。
鍋島藩の荒木氏の所有になったことから荒木山と呼ばれていたのを、京都の円山、長崎の丸山という花街の名前を拝借して円山町とした、と言われています。

『前日の未明に荒木山の待合で若い女と一緒だったという事実は既に掴んでいたらしいが、荒木山を後にした二人は浅草の待合に行き、九月一日の早朝まで、同じ女と宿泊していたことがわかったそうである。』
<第二部(18)より>

 

◆麹町区富士見町

 現・千代田区富士見町。当時存在していた甲武線(中央線)の牛込停車場が最寄で、外濠の近くです。
現在富士見町へ行くには飯田橋駅が最も近く、付近に東京逓信病院があります。
大正4年(1915年)8月から昭和2年(1927年)9月まで、与謝野晶子がこの地に住んでいました。

『「申し訳ありませんが、今夜はこれから人と会う約束があるのです。そこまで仰るのでしたら、明日にでも私の事務所にいらして下さい。いかがです?」
「それは願ってもないことです。この名刺にある住所でいいんですね?」
麹町区富士見町の住所を言うと、それで間違いないとのことであった。』
<第二部(19)より>

 

◆牛込停車場

 甲武線(中央線)の停車場として、市谷停車場と飯田町停車場の間に存在していました。現在の飯田橋駅から程近い場所(西側)になります。
明治28年(1895年)に開設、昭和3年(1928年)に飯田町駅と合併、飯田橋駅が誕生しました。

『一睡もせずに朝を迎えて早めに自宅を出た僕は、傘も意味をなさないほど容赦なく殴りつける雨と強風の中、代々木の停車場まで歩くと、中央線に乗って五つ目の牛込停車場を降り、雨に打たれた所為ではない寒気が体を細く走るのを感じながら、堀端を右手に西へ歩き、陸軍軍医学校の角を曲がった通りに面した長屋の前で足を止めた。』
<第二部(21)より>

 

◆西神田警察署

 現・神田警察署。千代田区神田錦町にあります。
明治26年4月旧神田区に神田警察署が誕生し、その後、神田錦町署、錦町署と名を変え、西神田署、外神田署と分割されました。
昭和20年5月、錦町、西神田、万世橋の各署が統合され、再び神田警察署の名が復活し、現在に至ります。

大正15年(1926年)当時の庁舎(写真左)。

『フラフラと立ち上がって玄関に行くと、そこには三つ揃の背広を着た厳つい男が二人立っており、その雰囲気からただならぬ緊迫感を察して身構えずにはいられなかった。
「どちら様で・・・」
一人が警察手帳を見せた。
西神田警察署の者ですが・・・」』
<第二部(22)より>


 

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