地 獄 の 接 吻 (22) 

 

 室田の事務所を出たのは午前十一時を回った頃であった。
牛込停車場まで戻ると、公衆電話函から松坂屋に電話を掛け、顔見知りの女性社員を呼び出してもらい、須美子がまだ行方不明だと知らせた上で、その後進展がないか確認したのだが状況は変わらずであった。
電話を切って中央線に乗り代々木に戻ると、駅長らに声を掛けてみたが、あれから須美子を見た者は誰もいなかった。
停車場を出るとまた冷たい雨が降り始め、傘を差して力なく歩いていると、ちょうど自宅の方角から無帽の男が一人、ぬかんるんだ田畝道をトボトボと傘も差さずに歩いて来るのが目に入った。
両手をズボンに突っ込んで、雨風に逆らうようにして前屈みになって歩くその姿は紛れもなく大場君であった。
大場君は、今朝まで画家仲間と新宿で飲んでいたらしく、自宅に戻る途中下車して僕の家に寄るつもりだったが留守であったので、帰ろうとしたところを家主に呼び止められ事情を知ったのだと言った。
「偉いことになったな・・・」
「全くだ・・・よかったら家に寄ってくれないか・・・話を聞いて欲しい」
大場君を傘に入れて、ますます激しさを増してきた雨の中を、柔らかい泥濘の道を踏みしめ歩きながら、これまでの経緯を話した。
自宅に着くと、大場君を六畳間の部屋に招き入れ、急に気怠い疲労感を覚えた僕は、雨で濡れた服もそのままに、倒れ込むようにして横になった。
「おい、大丈夫か?」
「平気だよ・・・ただ須美子のことが心配でならない」
大場君はしばらくの間、ぐったりと横たわる僕を心配そうに見下ろしていたが、やがて畳の上に胡坐をかくと、
「なあ森下君・・・最近、須美子さんと仲違いしたことはなかったか?」
と尋ねてきた。
「一切ない。まあ初めは考えたさ。遣り所のない不満を抱えていたんではないかとね」
「それはないと言い切れるか?」
「勿論だ」
「じゃあ仮に・・・君の言う通り、あいつが犯人だとしよう。余りにも想像に過ぎていると言えなくもないが・・・君はその・・・つまりだ・・・あいつが畸形的な異常性愛を須美子さんに対して抱いていたと・・・こう言いたいわけだろう?君と接触する前から、須美子さんを付け狙っていた異常者だと言いたいわけだな?」
「考えたくもないことだが・・・僕の頭を占めているのはその可能性だけだよ。証拠はないんだがね」
付け狙っていた、という大場君の何気ない一言を耳にして、三日前の江口邸からの帰り道、何者かに後を尾けられていたような異様な気配と無言の電話に、漠然とした不安が胸を擦って引きずり込まれるような恐怖に駆られたことを思い出し、あれは底知れぬ暗い虚無の真っ只中へと突き落とされる苦痛の前触れだったのではないかと感じた。
「じゃあなぜあいつはもう一枚の絵も手に入れる必要があったんだろう?君の推理なら『籐椅子の女』だけで充分だと思うんだが。そこがわからん」
「いや・・・わからないことだらけさ。いくら考えても一向にわからない」
と、僕が言い終えた直後のことであった。
玄関のドアを二、三度叩く音が聞こえたかと思いきや、勢いよく開いて僕の名を呼ぶ声がしたのである。
フラフラと立ち上がって玄関に行くと、そこには三つ揃の背広を着た厳つい男が二人立っており、その雰囲気からただならぬ緊迫感を察して身構えずにはいられなかった。
「どちら様で・・・」
一人が警察手帳を見せた。
「西神田警察署の者です。あなたは・・・」
僕はその言葉を遮った。
「須美子に何かあったのですか?妻は昨日から行方不明なのです。何かあったのですか」
刑事は一瞬顔を見合わせ躊躇った後、一人が言葉を繋いだ。
「残念なことですが・・・本日遺体で発見されました」

 

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