地 獄 の 接 吻 (21) 次の日は豪雨であった。 鬱積したやり場の無い感情を叩きつけてくれるでもなく、心を冷やす焦燥感を洗い流してくれるわけでもない雨は、益々僕を絶望の局地へと駆り立てていく。 一睡もせずに朝を迎えて早めに自宅を出た僕は、傘も意味をなさないほど容赦なく殴りつける雨と強風の中、代々木の停車場まで歩くと、中央線に乗って五つ目の牛込停車場を降り、雨に打たれた所為ではない寒気が体を細く走るのを感じながら、堀端を右手に西へ歩き、陸軍軍医学校の角を曲がった通りに面した長屋の前で足を止めた。 そこに法律事務所の看板を見つけた僕は、東隣にある三間四方の空き地の前で室田がやって来るのを待った。 すると五分もしない内に、黒の背広に鼠色の中折帽を目深に被った初老の紳士が、傘の下で体を縮込ませながらやって来るのを見て、僕は一歩近づいて声を掛けた。 が、それよりも早く、男は僕の姿を目の端で捉えるなり、 「昨日の方で・・・?」 と問い掛けてきたのである。 予測していたこととはいえ、僕の知る室田とは似ても似つかぬ風貌に唖然とした。 「ええ、森下です・・・」 「どうぞ、お入り下さい」 室田は僕の態度の端々に不穏な緊張を感じ取っていたのだろう、やや奥まっている目尻の下がった小さな目を更に細めて観察していた。 事務所の応接間に通されると、長方形の卓子を挟んで向かい合って座り、僕に疑念の目を向けている室田の顔を改めて直視した。 白髪は頭頂部の辺りまで後退し、丸顔で肌は色白、丸い鼻と小さな唇の間には白髪混じりの髭をたくわえている。 無言のまま卓子の上の紙巻煙草に火を点けた室田は、口を開きかけた僕に、 「で、森下さん。もう一度、初めから話してもらえませんか」 と言ってきた。 「いいでしょう、ありのままをお話します。僕の話が偽りでも何でもないことがわかって頂けると思います。ところで、先生は美術に関心がおありのようですね」 いつの間にか雨は止んだようで、窓硝子を透かして見えるどんよりと暗い陰気な空が次第に明るさを取り戻しつつあり、洩れてくる薄光が、壁の石版画の額縁に射していた。 「ええ、確かに。昨日電話で聞いた限りでは、森下さんは画家でいらっしゃるようですね」 「油絵を描いています。実は、室田弁護士と名乗る例の男と初めて会ったのが、上野の二科展でした」 「昔、何度か足を運んだことがありますよ。なるほど・・・その男は私に成り済ましていたんですね。モグリの弁護士が後を絶たないとはいうものの、こういう話は聞いたことがありませんよ」 「これがその時の名刺です・・・ご覧下さい。男が言うには、僕を後援したいと申し出ている、所謂パトロンがおり、但し本人が名を明かしたくないというので、その依頼主の代わりに展示会に赴いたと言うのです。美術評論家の肩書きもあると言って、造詣の深いところをひけらかしたかったのか・・・いえ、恐らくは、疑いを差し挟む余地を完全に払拭せんがために、わざわざ『画学』に掲載された批評を見せていましたよ。あれは先生がお書きになられたものですね」 「恐らく、私が書いたものでしょう。十年以上前、ある版画家の先生の顧問をしていたことがありましてね、美術には元々興味があったもので、先生の許にやって来ては評価を請う若い画家たちの絵を面白半分に批評しているところを、先生が目を付けられまして、新聞に書いてみないかと言われたのがそもそものきっかけだったのです。美術学校を出たわけでも教鞭を執ったわけでもありませんし、会員でもありませんから、単なる肩書きに過ぎません」 「そうするとあの男は、都合のよい経歴の持ち主を探していたところ、何処かで室田先生を知り、僕を騙すには打って付けだとばかりに偽称したのでしょうね」 「そうかもしれません。しかし、男の目的は何だったのです?」 「実は・・・昨日の朝、僕の妻が家を出たっきり・・・行方不明なのです」 「何の連絡もないのですか?」 「ええ、ありません」 「それに男が絡んでいると?」 「証拠はありません。しかし、僕には関係があると思えて仕方ないのです。と言いますのも、男が買った二枚の油絵の内、一枚が妻をモデルにした作品で、それを男が持ち帰った同じ日に・・・つまり昨日・・・妻が忽然と姿を消してしまったからなんです。・・・ええ、わかっています。偶然と言われればそれまででしょう。荒唐無稽な馬鹿げたこじ付けかもしれません。しかし僕にはどうしてもあの男の仕業と思えてならないのです」 「それはどうなんでしょうね・・・しかし・・・これはあくまでも仮定ですが・・・もし妻君を誘拐するのが目的だとしたら・・・なぜそんな手間のかかることをしたのでしょうね。合点がゆきません」 「男は妻を略奪することと、絵画を手に入れることの両方を目的としていたのではないでしょうか・・・そう考えれば納得出来ますよ」 「・・・一体何のために?」 「わかりません・・・でもそうとしか考えられないのです。男が偽称してまで僕の絵を買わなければいけなかった理由を探ってみると、どうしてもそこに行き着くのです」 「パトロンの話はどうなりますか?作り話にしては込み入っているように思えますが」 「仰る通りです。自分が買いたいと言えば済むものを、そんな架空の人物を創造する必要性がどこにあったのか・・・。僕は、そこだけはどうも真実のような気がするのです」 「そうですか・・・しかし・・・それにしても意図が見えませんね。ところで、男の容姿はどんな感じでしたか?」 「歳は四十代後半、背は僕と同じ位ですから五尺九寸(180cm)程ですが、二十五貫(90kg)以上は優にありそうな堂々たる体躯の男で、毎回一分の隙もなく背広を着こなしていましたよ」 「随分大柄な男ですね」 「心当たりはありませんか?」 「私の知り合いにそんな巨漢はおりませんよ。しかし、こちらとしても甚だ迷惑な話です。警察へは届けられましたか?」 「ええ、昨夜行きました。これで僕があの男に騙されていたということがはっきりしましたよ。・・・僕は、妻さえ戻ってきてくれればそれでいいのです。絵はどうなっても構わない。・・・妻だけは何としても・・・」
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