地 獄 の 接 吻 (20) それから僕は、家主の家を出て方々を捜し回ったのである。 まず、最寄の駐在所へ行き届け出た後、自宅からの沿道の家々や新開の屋敷町を訪ね歩いたり、煙筒から煙も靡(なび)いていない終業していた真っ暗な工場の中を覗いてみたり、林や並木道の陰、汽笛の音が鳴り響く代々木停留場の崖下、駅のホームと板囲いの待合所にも足を運び、駅夫には須美子の容姿や服装を伝え、今朝駅に来たかどうかを尋ねてみた。 すると、駅夫室にいた駅長が、その時間帯に切符を切っていたと言い、須美子らしい女が改札を通ったことを憶えていると証言した。 「私があそこにいる時は毎朝同じ時間帯に通るのでよく憶えてますよ」 と駅長は言った。 「間違いありませんか?」 「ええ。間違いなく電車に乗られましたね」 「特に変わった様子はありませんでしたか?」 駅長は少し考えていたが、やがて首を左右に振った。 「いえ、変わった様子はなかったと思いますが・・・なにぶん、あの時間はいつも混んでいますからね。それ以上のことは・・・」 その後僕は代々木から電車に乗り、新橋までの各停留場を降りて駅夫に聞き込みをしたが、何の収穫も得られなかったばかりか、省線を新橋で降り、芝口から銀座尾張町までの市電の各停車場でも同じ結果に終わってしまったのである。 松坂屋はもう閉店していたが、しばらく人気のない銀座の往来を当て所もなく歩いた後、最終の赤電に乗って新橋まで戻り、再び省線に乗車した。 柔らかいクッションのような座席に深く身を沈め床に両足を投げ出し、窓に頭を寄せてぼんやりと宙を眺めると、体中が暖かくなってくるような感覚に包まれ眠気に襲われた。 薄っすらと開けた視界の先に流れていく窓外の闇の向こうに浮かび上がった須美子の姿は霧のように儚く、僕の心に甘い疼きを灯す。 目を瞑り、うつらうつらする停滞した時間の中で、手探りで須美子の姿を追い求めるが、夢の粒は呆気なく弾けて冷たい現実に引き戻され、また彷徨い続けることの繰り返しだった。 代々木停車場から、ぐったりと憔悴した体を引き摺るようにして辿る家路は侘しく辛いものがあった。 自宅に着くと、電話があったら郵便受にメモを入れてくれと家主に頼んであったので確認したが、一度断ったはずの裸婦画の依頼者からの手紙が一通入っているだけだった。 そして、須美子が帰った形跡もなかったのである。 戻る 21へ |
著作権について
本ウェブサイト内のコンテンツの著作権は、作者個人が保有します。 許可なく複製、転用などの二次利用を禁じます。
Copyright (C) 2007 Seiren Takeshi. All Rights Reserved.