地 獄 の 接 吻 (19)

 

そこで一旦松坂屋を出た僕は、銀座通り沿いを一町程歩いた場所で赤塗りの公衆電話函を見つけた。番号簿に記載されている病院に手当たり次第電話を掛け、問い合わせ続けたのだが、午前中に女の救急患者が運ばれてきたという病院は二箇所だけで、その上どちらも年配者であった。
 受話器を置き、ちらっと外を見ると、ボックスの前で小粋な俗衣を腕捲りした中年の男が苛立った様子で突っ立っており、電話を掛けたがっている様子だったが、僕は無視をして家主の家に電話した。
家主は確かに午前八時から午後の二時頃まで外出していたらしく、それ以降は僕宛の電話は一切掛かっていないと言った。
次に江口氏の家に電話を掛けたのだが本人は留守であったので、妻君に事情だけ説明すると受話器を置き、ボックスを出ると外で待っていた浴衣姿の男に詫びて松坂屋に引き返した。
先程の女性店員は、他の社員にも尋ねてみたが心当たりのある者はいないようだと言い、それを聞き付けてやって来た上役の男には、何かわかり次第連絡をくれと伝えその場を去った。
 市電と省線を乗り継ぎ、急いで千駄ヶ谷の自宅に戻ると、やはり須美子は戻っておらず、またその形跡もなかった。
アトリエに入り一旦気持ちを落ち着かせあれこれと思考を巡らせてみたが一向に答えは見出せず、かえって収拾が付かなくなり混迷を極めるばかりであった。
 今朝の須美子はいつもと何ら変わった様子はなく、五時半に起床すると、江口氏が来訪するということで、日課である掃除をいつもより念入りに済ませた後、朝食の席では、近頃写生をするために街を練り歩いていた僕に、今度の休みの日にはわたしも一緒に行きたいなどと楽しそうに談笑していたのである。
そして玄関まで見送る僕に愛嬌たっぷりの笑顔を見せ手を振りながら、視界の彼方へと小さくなっていく、縮緬の羽織を着た須美子の後姿は、今も眼の前に浮かんでくるようだ。
あの後須美子は何処へ行ってしまったのか。
 イーゼルを前にして椅子に腰掛け、どんな些細なことでも思い出そうと試みるが、考えれば考えるほど深い憂愁に閉ざされそうな思いがした。
目を閉じれば瞼の裏に焼き付いた須美子の淑やかな顔が・・・目を開ければ渦巻く霧が広がるばかりのようであった。
須美子をモデルにしたあの「籐椅子の女」が僕の許から離れて行ったのと同じ日に、まさかこんな事態に陥ろうとは夢にも思わなかったが、この奇妙な一致については、偶然という言葉の上で胡坐をかいて否定しようとするも、心のずっと深い底では、二つの出来事が一致した瞬間に、何か思いも寄らない力が及んでいたのではないかと信じるようになっていったのである。
磊落(らいらく)な大男という印象であった室田弁護士の、「籐椅子の女」を持ち帰った際の余所余所しい冷淡な態度を思い起こす度、益々その考えに執着するようになり、凍り付いた思考を懸命に溶かしながら事態を整理していくと、どうしても避けては通れないような気がした。
馬鹿馬鹿しい思い付きのようでもあったが、可能性として考えられることは、丹念に調べ上げ、一つ一つ潰していくしかないと思ったのである。
 早速一階に降りて六畳間の部屋に入ると、和箪笥の最上の引き出しから室田の名刺を見つけ、家主の自宅に向かった。
須美子が行方不明であることは電話で話していたので、しきりに心配している家主に、心当たりがあるので電話を貸してくれと頼み、早速室田の事務所に電話を入れた。
これまで室田からは、始終外出していることが多く、また事務所にいれば依頼客がひっきりなしに訪れるため、電話はしないでくれと断られていたのである。
何度か呼び出し音が鳴った後、事務員らしい女が出た。僕は名前を名乗った後、室田先生をお願いしますと言った。すると、事務員がその場で、
「先生、お電話ですが」
と伝える声が受話器の向こうから聞こえ、程なくして、電話機に近付いて来る足音が微かに洩れ聞こえてきた。
「・・・はい、室田ですが・・・」
それは物静かで含みのある低い声であったので、電話で聞くと随分印象が変わるものだと思った。
「室田先生、森下です。お忙しいのは重々承知の上なのですが、ぜひお話したいことがありましてね」
すると、しばしの間沈黙が流れた。僕は息を呑んで耳を澄ませていたが、何の反応も示してこないことに痺れを切らしそうになった直後、
「・・・失礼ですが・・・間違いではありませんか?・・・」
と室田が怪訝な声で問い返してきたのである。
不審を露骨に表し警戒心を強めていることが電話越しにはっきりと伝わってきたので、僕は躊躇せずにはいられなかったばかりか、これはいよいよ大事になりそうだとの不安が現実味を帯びてくるのを感じた。
電話に出た相手が、僕の知っている室田ではなく、全くの別人なのではないかとの思いに囚われたからだが、しかしもしかすると、理由は定かでないが、室田は知らぬ存ぜぬで押し通し、這々の体で逃れようとの腹づもりなのかもしれない。
いずれにせよ、このまま引き下がるわけにはいかなかった。
「室田先生ですよね。ええ、間違いありません。まさか僕をお忘れになったなんて言わないでしょうね」
「・・・何を仰っているのです・・・私は・・・存じ上げませんが・・・」
「では今日僕が美術館で会ったのはどなたなんです?先生ではないとしたら一体誰なんです?」
「・・・美術館?・・・」
「ええ、そうですよ。思い出してくれましたか?今日上野の森でお会いしましたよね。そして先生は僕の二枚の絵画を持ち帰って・・・購入してくれた篤志家の女性にお渡ししたのではないんですか?」
ここで再び沈黙が流れた。容易ならざる気配をお互いが感じ取ったような静けさであった。
「・・・もう一度お名前を言ってもらえませんか」
「森下和真です。先生とは何度も・・・」
「それであなたは、私の名を勝手に語る人間と会ったということなのですか?」
「それは何とも申し上げられません。先生が僕にそう思わせようと企んでいるのかもしれませんからね。いいですか、ここにちゃんと先生の名刺もありますし、これまで三度もお目に掛かっています。なのでこれ以上・・・」
「申し訳ありませんが、今夜はこれから人と会う約束があるのです。そこまで仰るのでしたら、明日にでも私の事務所にいらして下さい。いかがです?」
「それは願ってもないことです。この名刺にある住所でいいんですね?」
麹町区富士見町の住所を言うと、それで間違いないとのことであった。
「明日は午前中なら空いています。九時以降なら何時でも構わないのでいらして下さい」
「わかりました。では九時に」
と言って電話を切った。
僕はもうその時点で、電話に出た室田弁護士が、僕の知る室田とは何の繋がりもない別人だと信じて疑わなくなっていた。
真っ当な買い手であることを堅く信じ、相手の要望に従わざるを得ない立場であったことが注意力の欠如を招いたとはいえ、もっと早く室田の所在を把握すべきであったと後悔せずにはいられなかった。
それに、須美子がかつて室田の印象について違和感を感じると何気なく放った一言によって、少しでも疑惑の目を向けていればと悔やみもしたが、あの日の僕は愚かなことに、絵が売れたことで大いに気を良くし、気に掛けようともしなかったのである。
しかし、須美子の失踪と室田の偽称にどんな関係があるのか、絡み合う複雑な糸を解きほぐそうとしても一向に答えが見出せなかった。
 僕は今の電話の経緯を、家主に話して聞かせたが、その最中にまた電話が鳴り、躊躇わずに真っ先に受話器を取ると相手は江口氏であった。
まだ須美子の居場所がわからないこと、そして僕の絵を購入した室田弁護士が、実は偽者であるかもしれないことなどを話すと、
江口氏は今横浜倶楽部という社交場におり、東京には明日帰るから、それまでにはまた連絡をすると約束して電話を切った。

 

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