地 獄 の 接 吻 (17)

 

再度お伺いする旨を伝え江口邸を後にした僕は、本郷三丁目の駅に向かうまでの間、江口家の長男の殺人事件について、あれこれと思考を巡らせていたのだが、しばらくすると、誰かに後を尾けられているような気配を感じたのである。
コツコツという甲高い靴音が背後から鳴り響いているのに気付き、それはまるで一定の距離を保ちながら歩いているかのようであった。
初めこそは然して気にも留めなかったのであるが、やがて電車に乗り、流れていく車窓の景色を眺めていると、誰かに見られているという妙な感覚、得体の知れない粘っこくて射るような視線が体中にまとわり付いて離れない気色悪さに、僕はすっかり落ち着きをなくしてしまったのである。
車中を念入りに見渡してもそれらしい人間は見つからなかったものの、気配に対する感覚が鋭敏になっていたということは、僕に向けられた剥き出しの感情が余程強いものであったからだろう。とても錯覚とは思えなかった。
 電車を乗り継いで代々木の停車場を降り、自宅に向かって歩いている時は更に過敏になった。
耳に残っていたあの靴音、コツコツという甲高い音が聞こえたような気がすると、咄嗟に周囲を見渡した。
空は曇っていて星も見えない。恐らく午後六時はとっくに過ぎている頃であろう。ひたすら前方を見つめて歩いていると、人気のない田畝道は時折闇に溶け込んで識別が付かなくなり、その度に僕は足を止め中腰になって行く手を窺ったりした。
点在する木立が風に揺れ、梢が生き物のようにざわめき、びっしりと重く繁る闇に包まれると、根拠のない恐怖感に駆られた僕は歩調を速めた。
歩き慣れているこの道で一体何を怖がっているのだ、馬鹿馬鹿しい、と自分に毒付きながらも、果てしなく続く深い闇に想像を掻き立てられ払拭することが出来ない。
急いた感情を押し殺しながらひたすら歩き続け、やがて灯りの点いている自宅が視界に入ってくると、どうにか気持ちを落ち着かせることが出来たが、身体は疲れ切っているにも関わらず心臓だけは自らの意思を持っているかのように激しく鼓動を打ち、目を閉じても耳の奥で鳴り響く脈の音がずっと聞こえていた。
ドク、ドク、ドク、ドク・・・。
そこにあのハイヒールの靴音が重なる・・・実際に聞こえてくるあの靴音・・・。
コツ、コツ、コツ、コツ・・・。
僕は後ろを振り返ることが出来ず、何かから逃れるよう自宅に走り込んだ。
「あら、あなた」
仕事から帰ってきたばかりであったのだろう、長襦袢に着替え終えたばかりの須美子が、胸板を忙しなく上下させながら熱くて荒い息を吐き出す僕を、きょとんとした顔で見つめている。
「どうなさったの?そんなに急いで」
「いや、別に、ただ・・・」
肩で息をしながらこう言うのが精一杯であったが、絵を頼まれていたことを思い出し、
「社長の奥さんが絵を気に入ってくれてね。取りに来たんだよ」
「まあ、そうでしたの?これからまたお伺いするんですか?」
「そうなんだ。急がないと遅くなるからね」
ありったけの笑顔を見せて取り繕った後、二階のアトリエに上がり、額に納めてある絵画をしっかりと布で包んでトランクに入れたのだが、その時手先が小刻みに震えているのに気付いた。この時ほど自分を怨めしく思ったことはない。臆病な自分に腹が立って仕方なかったのである。
しかし、その恐怖が果たして本当に根拠のないものなのかどうか、疑うことをしなかったのは、漠然と抱いていた不確かな予感が現実味を帯びてくる感覚さえも、無意識に感じ取っていたからなのだろう。
その思いを払拭するかのように、僕は頭を激しく振って一息吐くと、トランクを持って階段を降りた。
すると、須美子と家主の老人が玄関で話をしていた。
「あなた、江口さんから呼び出しのお電話が入ってるそうなの」
それを聞いて、僕はてっきり社長夫妻のことだと思ったのだが、家主の許可をもらって番号を教えている人間は限られていることを思い出した。
自宅を出て家に上がらせてもらい、廊下にある壁掛け式電話に出てみると相手は息子の江口氏であった。
「母から聞いたんだが、今夜約束していたらしいね」
「何かあったのですか?」
「うん、申し訳ないが急用が出来た。則之さんのことで、新たにわかったことがあってね。刑事がまだ家にいるらしいんだ。これから私も行ってみるんだがね」
「そうなんですか。ひょっとして・・・」
僕は家主がそばにいることを忘れ、思わず逮捕という言葉が口から出そうになった。
「いやいや、犯人がわかったわけではないんだよ。だから今夜は会えないが、近い内に私が君のアトリエに伺うよ。明後日はどうかね」
「明後日は二科展が終了するので、以前話していた弁護士先生と会場で会う予定なんです。午後一時という約束なのですが」
「それじゃその前に会おう・・・そうだね、十時ではどうだ?」
「わかりました。お待ちしてます」
「うん、それじゃこれで失礼するよ」
そこで電話は切れた。しかし、傍らにいた家主に礼を言って帰ろうとした途端、再び電話のベルが鳴ったのである。
僕と家主は思わず顔を見合わせ、お互いが譲り合う格好になってしまった。
「また掛けてきたんじゃないのか?」
家主はしわがれた声で、僕に早く出るように催促した。
半円形のアームに掛けてある受話器を取り耳に当て、送話口に顔を近付ける。
「・・・もしもし?」
ところが、何も聞こえてこなかった。切れたわけでもない。
交換手を通さずに掛かってきたということはやはり市内からであろうが、こちらが何を言っても反応がないので耳を済ませていると、電話の相手が息を潜めて僕の様子をうかがっている気配を感じた。
「森下ですが・・・江口さんですか?」
数瞬の沈黙と微かに聴こえる息遣い。
訝しげに見つめている家主に、僕は首を傾げながら受話器を渡そうとしたが、そこで通話がぷつりと切れた。
「・・・切れてしまったようです」
そう言って、小刻みに震え出した手で受話器を戻したが、その後家主に断った上で、中央局に電話を掛けると、今の電話が何処から掛かってきたものなのかを尋ねた。
するとそれは、代々木停車場前の公衆電話函だということがわかったのである。
そして再び電話が掛かってくるのではないかと、しばらくの間その場で待っていたのだが、結局、電話のベルが鳴ることはなかったのである。

 

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