地 獄 の 接 吻 (16)

 

 新たに開発された高速輪転印刷機の視察のために、亜米利加と独逸へ出張していた江口製作所の社長宅へお伺いする機会を得、本郷森川町へ行くことになったのは、それから数週間後のことであった。
 本郷三丁目で市電を降りて、交差点を過ぎ北上し、三叉路の追分で左折するとその先が森川町で、高台と低地の間にある土地らしく、急斜面の上に建つ住居が沢山目に付いたが、七百坪はあろうかという敷地内の瀟洒な数奇屋風の江口邸は、坂道を上り切った場所にあった。
自ら出迎えて下さった社長は想像していた風貌とはまるで違い、背丈は五尺二寸(157cm)足らず、灰色の長着を着た体は痩せぎすで、白髪混じりの髪の毛と皺の多い面長な顔は六十歳という年輪を感じさせたが、優しげな目元を和ませながら世間話を交え奥の間へと案内してくれたところなどは、気さくな人柄が滲み出ていた。
書院造りの広い奥の間は、天井板や襖や障子、精細な松や竹の細工が施されている欄間などふんだんに贅を取り入れていて、滝の音が聞こえる池庭から差し込む陽光が、秋草の掛け軸がある床の間をほんのり照らして柔らかい雰囲気を醸し出している。
重厚な一枚板の机の前に座るように勧められると、社長は開口一番外国への出張話を延々と聞かせてくれたが、黒と茶の濃淡の着物を着た妻君が、外出先から戻り茶を持って現れ会話に割って入ってくると、話題は僕の絵画のことに移った。
社長夫妻に絵を見せるため、カメラで一枚ずつ撮影した写真をアルバムに貼り付けるという案は婿養子の江口氏によるもので、それを持参していた僕は机の上に広げて見せると、念入りに目を通し始めた妻君が、千駄ヶ谷付近の風景を描いた作品に興味を持ったらしく、寝室に飾るにはちょうどいいと言ってくれた。
「お前、また値切るようなことはするなよ」
と社長が横から口を挟むと、妻君はそんなことしませんよとあしらった。
「今度この絵を持ってきて下さる?実物を見てみたいわ」
「なんでしたら、今日お持ちしてもいいですよ」
「よろしくて?」
「ええ、構いません。これは八号なので、それほど大きくありませんから。アトリエに取りに戻って、また伺わせていただきますよ」
「ところで森下君、息子から聞いてるんだが、うちの画廊で個展を開くそうじゃないか」
「はい、この度は場所をお借りすることになりまして・・・。十二月に開催する予定です。まだ作品数が少ないので、今も休みなく描いているところですよ」
「全部息子に任せっきりだからね、まあ上手くやってくれたまえ。その時までには絵の方も・・・」
と社長が最後まで言い切る前に、障子の向こうから若い女の声が聞こえてきた。
「失礼致します」
という声の後に障子が開かれると、そこには木綿の着物を着た女中が立っていた。
「あら、どうなさったの?今日はもう帰っていいのよ」
「はい。あの、たった今お客様がお見えになられたものですから」
「客?誰だ?約束した覚えはないが」
女中は僕の顔をちらっと見ながら、言っていいものかどうか思いあぐんでいる様子であった。
「どなたなの?」
「あの・・・警察の方で・・・」
途端に夫妻が顔を見合わせ、重苦しい雰囲気が漂い始めた。
「・・・まあ・・・あなた・・・きっと則之のことで・・・」
「馬鹿。こんなところで名前を出す奴がいるか。・・・森下君、すまないが、今日のところはここでお引取り願いたい」
こう言うと、社長はスタスタと奥の間から出て行ってしまった。
「ごめんなさいね、森下さん」
立ち上がりかけた僕に、妻君が申し訳なさそうに詫びた。
妻君と玄関まで長い廊下を歩いて行く途中、通りがかりの部屋から、何やら熱心に話し込む男の声が洩れてきたが殆ど聞き取れなかった。
「息子から話は聞いてますか?」
玄関に着くなり妻君がこう尋ねてきた。
それが何を指すのかすぐに気付いたものの、素直に話すべきか迷って口を噤んでしまったが、その僕の様子を見て妻君は悟ったらしい。
「そうなんです。長男の則之は震災のあった日に殺されたんですの。警察の方がいらっしゃったのはその件なんです」
「ええ・・・聞いておりました。それから、何か進展はあったのですか?」
「いいえ、特にないんですの。ただ、今日は急にお見えになったので、ひょっとすると何かわかったのかもしれません」
「そうだといいですね・・・」
「主人は世間体ばかり気にする人ですから、事件は一切公にはしておりませんけど、それがかえっていけないのかもしれませんね。あら、ごめんなさい、こんなこと森下さんにまで」
妻君の顔からは、絵画の話に熱中していた明るい表情がすっかり消え失せてしまい、三年以上にも渡って苦しみ抜いてきた憔悴の色をはっきりと浮かび上がらせていた。

 

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