◆北豊島郡長崎町のアトリエ村 1930年代、豊島区長崎界隈には美術家向けに多くのアトリエ付貸家が建ち並び、「アトリエ村」が形成されていました。 パリのモンパルナスに倣って「池袋モンパルナス」と呼ばれていました(詩人の小熊秀雄が命名)。 若い画家や彫刻家、小説家など様々な芸術家が住み着き、池袋などに繰り出しては芸術論を交わしたり、夢を語り合ったりしたそうです。
 | 昭和初期頃のアトリエ村(写真左) 『半年前に、北豊島郡長崎町のアトリエ村にある君の家を訪れた際、それまでの経緯を、掻い摘んで話したことは記憶に新しいが、あの時は何一つわからぬままで、運命の悪戯に弄ばれているとしか言いようのない不快さに身もよじれんばかりであった。』 <第一部(1)より> |
◆ 二科展 山下新太郎、津田青楓、有島生馬らの新帰朝者を中心にしたグループが、文展の審査に不満を持ち、新しい美術の発展を図るために文展を脱退、在野の団体「二科会」を結成しました。 その後、「二科展」は長らく上野の森美術館と東京都美術館で開催されていましたが、平成19年(2007年)に開催した第92回から、六本木の国立新美術館で開催しています。 『それは今から約四年前の大正十二年九月一日の土曜日、といえば関東諸国の人々を絶望の淵に追いやったあの忌わしい大震災が発生した日であり、第十回二科展の初日にも当たった。数日前に入選の報を受けた僕の二点の絵画が、ここに出品されることになっていたのである。』 <第一部(2)より> ◆カフェープランタン 明治44年3月、元は銀座を根城とする博徒が住んでいた荒れ果てた空き家を改造して、日吉町(現・銀座8丁目)で最初の西洋風カフェーが誕生しました(震災後移転)。それが「カフェー・プランタン」です。 美術学校出身の松山省三と絵描きで新橋花月楼の若主人平岡権八郎の共同経営で、名付親は新劇界の重鎮、小山内薫。会費五十銭で維持会員を募り、集まったメンバーは、黒田清輝、森鴎外、永井荷風、島村抱月、高村光太郎、北原白秋、谷崎潤一郎など錚々たる顔ぶれ。それに新橋花街の芸妓も加わりました。しかし、会員制度は利用者が少なく、半年程で廃止。コーヒーや酒類は勿論のこと、平凡な料理は一切出さずに、珍味を揃えて、一日四品だけに限定して出していましたが、後年は客の注文に合わせて料理を出すようになったそうです。 画家の和田三造が、パリの絵葉書にヒントを得て、壁に来客の印象なり即興の落書きをしてもらうことにしたのをきっかけに、壁といわず、柱や天井といわず、われもわれもと酔いにまかせて落書きをし、それが大変な評判になったとのこと。  | カフェープランタン(写真左)。壁に落書きが見えます。 『(中略)そして仏蘭西へ渡っていた不知火先生が二年ぶりに帰朝されたのち、銀座のカフェープランタンへ僕をお招き下さったのもこの日であったのだ。』 <第一部(2)より> |
◆静岡県田方郡三島町 現・静岡県三島市です(主人公森下の実家は田方郡三島町六反田の藍染屋で、現在の広小路町)。 かつて三島では、湧水の川を利用して染物業が盛んに行われていました。 三島の水は夏冷たく冬暖かく、年間を通して十五度と変らず、その上染物に適しており、昭和2年頃には染物屋が二十軒以上もあったそうです。 『東京が震災の打撃から復興していく過程を僕は見ていない。 なぜなら、千駄ヶ谷のアトリエの残骸から使えるだけの画材をかき集めたのち、東京を引き払い郷里である静岡県田方郡三島町に戻ったからだ。 (中略) 僕の実家は藍染めを生業としている所謂紺屋で、藍を湛えた藍甕が並ぶ土間に、ほどよく醗酵した際に立つアンモニアにも似た匂いは懐かしく、日当りのよい裏庭に布が張られ糸が干されているのは昔と変わらない。』 <第一部(5)より> ◆松坂屋 慶長16年(1611年)織田信長の家臣、伊藤蘭丸祐道が、名古屋で呉服小間物商の看板を掲げました。これが、松坂屋の前身である「いとう呉服店」です。 上野の松坂屋を買収して「いとう松坂屋」と改め、江戸へ進出したのは明和5年(1768年)。 明治43年(1910年)に百貨店に業態を転換、大正12年(1923年)に、関東大震災により上野店全焼、しかし翌大正13年(1924年)には銀座店が開店。そして大正14年(1925年)に商号を「株式会社松坂屋」に統一しました。  | 昭和4年(1929年)に建築された上野広小路の新館(写真左)。 『「君が上野で働いていたことは知っていたよ」 僕がこう言うと、須美子は、あらと声を上げた。 「でも、和真さんは一度も来ていただけなかったわね」 「松坂屋なんぞは敷居が高くて困る。僕のような貧乏画家風情が行くところじゃないさ」』 <第一部(6)より> |
◆西條八十の詩集『砂金』より「トミノの地獄」 「唄を忘れたカナリヤ」などで有名な詩人、西條八十(1892〜1970)が、27歳の時に発表した詩集「砂金」に「トミノの地獄」という物悲しい詩が収められていて、それを作中に引用しています(小説の中では作者とタイトルを明かしていません)。 『「それを膝の上に置いて黙読しててくれ」 と要求すると、須美子は緊張を解きほぐすかのように声を出して読み始めた。 「姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く、ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き・・・何て暗い詩なんでしょう」』 <第一部(7)より> 戻る |