地 獄 の 接 吻 (14) 「森下和真先生でいらっしゃいますかな」 悠然とした態度で背筋を反らしながら発した男の声には嘲弄の響きが含まれているように感じられたので、僕は少し警戒心を持って答えた。 「ええ・・・僕が森下ですが」 「やはりそうでしたか」 男は若干態度を和らげると、ステッキを左手に持ち替えて骨太の分厚い手を差し伸べてきた。 握手を要求する男の手を見下ろしながらどうしたものかと躊躇していると、 「初めてお目に掛かりますな。私は弁護士の室田です」 と男は反応を確かめるように僕の目を覗き込みながら自己紹介した。 躊躇しつつも男の手を握った時、通りがかった知り合いの画家に声を掛けられた大場君が、じゃあ失礼するよと言い残しその場を立ち去った後、室田と名乗った男は強張った表情を浮かべている須美子にも挨拶をした。 「大変綺麗な奥様ですな、先生。どちらでお知り合いになったのですか?」 「室田先生、と仰いましたね。ところでご用件は何です?」 「いやはや、私としたことが不躾でしたな。用件というのは他でもありません。先生の素晴らしい絵を買わせていただきたいのですよ」 あまりにも唐突で意外な一言に面喰らい言葉を失した僕は、浅はかにも煽てられて気が緩み顔を綻ばせてしまったが、須美子は警戒心を解かないまま訝しげな表情で室田を見ている。 「いけませんかな?」 ややたじろいでいる僕の様子を探るように室田は訊ねた。 「いえ、そんなことはありませんが・・・室田先生は、僕の絵をこの場で初めてご覧になったんですか?」 「そうです。こう見えましても私は美術批評家でもありましてね、美術誌の『画学』に時々記事を書いているんです。ご覧下さい、これです」 鞄から一冊の本を取り出してさらさらと捲ると、あるページの隅を指し示し、そこには若手画家の作品を批評する室田の記事が掲載されていた。文の末尾に「弁護士/美術評論家 室田三朗」とある。 「なるほど、これは失礼致しました。でしたら、ぜひお伺いしたいのですが、室田先生は僕の絵の何処に興味を持たれたのでしょうか。それだけ早く即決なさるということは、余程のことと察しまして。宜しければ聞かせていただけませんか?」 「いいでしょう。まずはこれ、『死の彼方』ですな。赤と黒でまとめられていて暗く残酷な雰囲気ですが、火の手から逃げる人々の先に見える、地面から僅かに顔を出す草木に、生命の兆しや希望を感じます。この静かに表れ始めた生命の兆しがどのように増殖するのか見守りたくなりますな。そしてこれ、『籐椅子の女』は、色の組合せが実に見事です。中心になる色が特に映えるようなこの色使い。女性の内面性が滲み出ている様に思われる暖かい色使いの中で、凛とした強さを感じますな。欲しいのはこの二枚なのです」 「よくわかりました。さすがに批評家でいらっしゃいますね」 「いやいや、大したことはありません。絵を触媒として内面に自然に浮かぶ気分やイメージを味わうように鑑賞することを心掛けてますからな。ところで、このモデルは奥様ですね?お名前をお伺いしても宜しいですかな」 「須美子と申します」 須美子は照れ臭そうに俯きながら呟いた。 「お美しいお名前ですな」 「この作品は、震災の後、東京を引き払って僕の実家へ戻った時に描いた絵なんですよ」 「ほう、ご実家はどちらで?」 「田方郡三島町です。先生はどちらですか?」 「私は代々東京でしてね、田舎はありませんから、震災で家が倒壊していたら帰る所も無く路頭に迷うところでしたよ。ハハハ」 室田の大きな笑い声が場内に響き渡って、来場者の視線が突き刺さるのを感じた。 「ご実家で描かれた絵のモデルが奥様ということは、ひょっとするとお二方は幼馴染ということですか?」 「その通りです」 「ほう、これはまた興味深いですな。ところで先生、折り入ってお願いがあるのです」 「何でしょうか」 室田は突然神妙な面持ちになった。 「実はですね・・・驚かれるかもしれませんが・・・これらの絵を欲しがっているのは別の人間なのです」 「えっ?・・・と申しますと・・・?」 「私を介して絵を買いたいと、ある御方が仰ってるんですな。ええ、不思議に思われるのは無理もありません。匿名の篤志家と思って下されば結構です。投機家ではありませんよ。その御方は、表に立って直接支援するような無粋なことはしたくないと仰ってましてね」 「そうだったんですか・・・。ははあ、ということは先程の批評は・・・」 「嘘ではありません。私自身も、先生の作品に魅了された人間の一人です。しかし、その御方には到底及びませんな」 「何処のどなたなのか教えていただけないのですか?」 「口止めされていますからね、それだけは間違っても言えません。ですから先生、表向きには私が絵画を買ったということにして下さい」 「男性ですか、女性ですか?せめてそれだけでも教えていただけませんか?」 「うむ。仕方ありませんな。お教えするのはそれだけですよ。その御方は女性です」 「女性ですか・・・?」 寝耳に水で思いもよらないことであったし、いくら考えても見当が付かなかった。それが女性となると尚更で、どのような経緯で僕の絵に興味を持ったのか、そしてその女性は何者なのかと執拗に食い下がったのだが、室田は陰の支援者の身分を決して明かすことはしなかったのである。 戻る 15へ |
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