地 獄 の 接 吻 (12)

 

僕たちは握手を交わした後、玄関まで江口氏を見送ったのだが、降って湧いたかのような幸運にその日はずっと浮ついた調子で興奮冷めやらず、夕食の席で江口氏の来訪を話して聞かせた須美子にもそれが伝播したようで珍しく取り乱していた。
「でもあなた、これからは御厚意に報いるためにもしっかりやっていかなければなりませんね」
「圧力を掛ける気かい?まあこれで益々やる気が出てきたというものだよ」
「江口さんの会社は何をさなってるの?」
「新聞の輪転印刷機を製造してる会社らしいよ。本社屋は赤坂溜池にあって、支社が全国に八箇所、工場が二箇所あるそうだ。これからは鉄道が至る所で開通していくだろうから、そうなると新聞の配達体制にも変革が起きて更に拡大していくんじゃないか。何しろ大きな会社だ。江口さんが跡目を継ぐことになったらすごいことだね」
「あら、でも社長さんには御子息がいらっしゃるってこの前仰ってたじゃない」
「うん、いるということだけは聞いていたんだが・・・実はね、ここだけの話・・・長男は則之さんという人らしいんだが・・・震災のあった日に殺されたらしいんだよ」
「・・・えっ?・・・まあ・・・」
「誰かに絞殺された後、隅田川に遺棄されたらしい」
「誰かにって・・・じゃあ犯人はまだ捕まってないんですか?」
「そのようだよ。あの時の治安は酷いものだったから、物盗りの仕業かもしれない。でもあまり立ち入ったことも聞けないから、それ以上のことはわからないんだがね・・・」
 殺人事件の話が話題に上ってから食事を終えるまで僕たちは一切言葉を発しなかったのだが、思い起こしてみれば胸騒ぎにも似た気色の悪い妙な疼きが胸奥に渦を巻いていたような気がするのである。
不確かな予感めいたもの、根拠なき不安を無意識に感じ取り口を閉ざしていたと思うのだ。
暗雲は静かに、そしてゆっくりと垂れ込めようとし、その厚さを増しつつあったことは、誰も知り得ぬことだったのである。

 

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