地 獄 の 接 吻 (11) 江口氏がアトリエを訪ねて来たのはそれからしばらくのことであった。震災の日、不知火先生から改めて紹介すると言われて以来、紆余曲折経て久し振りに再会した喜びを僕たちは分かち合った。 中折帽に三つ揃えの背広を着こなし、チョッキには金色の懐中時計の鎖が光っているところなど金回りの良さを感じさせるが、画家の夢を断ち切ったほどの極度の近視というだけあって、カンバスへくっ付かんばかりに鼈甲製の丸眼鏡を近づける姿は、上品な物腰からは不釣合いな印象を与え庶民的な闊達ささえにおわせた。 江口氏は、最初に「籐椅子の女」を手に取って仔細に渡って鑑賞していたが、 「うん。森下君、これはいい。すごいな」 と唸り、こちらが恐縮するような褒め言葉を口にして僕をひどく喜ばせた。 「この絵はよく出来てる。妻君の情感と窓から差し込む光が静寂の中で溶け合っているかのようだ」 こう呟いて感慨に耽る江口氏の凛とした姿勢の数分間にどれほどの深い感動が潜んでいるのか知る由もなかったが、その後何事もなかったかのように優雅に襟を正すと、「源兵衛川とその風景」と題した故郷三島の藍染職人の姿を描いたカンバスに目を移し、次に一連の風景画と両親の肖像画へ、そして震災時の体験を描いた「死の彼方」を手にすると苦虫を噛むような表情に変わり果てたので、僕は言い訳めいたように、 「手紙にも書きましたように、あの日は命からがらでした。例外的な作風になりましたが、何としても一枚は描き残しておきたかったのです」 と言った。 しかし江口氏は強張らせていた表情を和らげると、 「いやいや、そうじゃない。何もこの絵を非難するつもりはないんだ。これは隅田川だね。奇遇だが・・・私の義兄がここで殺されたんだよ」 と言ったのを聞いて僕は大変驚いてしまった。 「殺された?・・・あの日にですか?」 「そうなんだ。君も知っての通り、私は江口製作所の社長の娘婿だが、長男の則之さんは昔から放蕩息子で有名だったらしくてね。仕事に携わろうともせず遊んでばかりいて、あの頃も二ヶ月ほど行方をくらましていたんだ。社長はもう見限っておられたから捜そうともしなかったんだが、震災のあった日はさすがに動揺されてね。手分けしてくまなく捜索したところ、社長が隅田川の岸に累々と横たわる遺骸の中から則之さんを見つけたんだよ。あの大混乱のどさくさに紛れ何者かに絞殺された後、川に放り込まれたそうだ」 「そうだったんですか・・・。まさかそんなことがあったとは存じ上げませんでしたので・・・。それで、犯人は捕まったのですか?」 「まだだよ。もう二年半になるがね、誰の仕業なのかわかっていない」 それからは何も言葉が出てこなかったが、江口氏は気分転換を図るかのように、二、三度軽く咳払いすると、眼鏡を外して上衣のポケットから取り出した純白のハンケチでレンズを磨き始めた。 「いやはや失敬した。こんな話をするつもりは毛頭なかったんだがね。忘れてくれ」 こう言うと、再び「死の彼方」に目を移し、最後に僕の自画像を手に取って眺めた後、作品を一通り見終えての感想を口にしたが、江口氏の義兄が殺されたという話がずっと頭から離れずにいたのである。 「普段はこれでも、否定的な寸評ばかり唱える辛口屋だと妻から愚痴を零されるんだが今日は違うようだ。私はもはや日曜画家に過ぎないが蒐集家でもあるし人並以上の審美眼は持ち合わせてるつもりだから言わせてもらうが、一つを除いては鑑賞に堪え得る作品ばかりで素晴らしい。今年の二科展は期待してもいいんじゃないか。不知火先生もさぞお喜びになったことだろう」 「ありがとうございます。言葉もありません。妻もきっと喜びますよ」 「主観的ではなしに、あくまでも客観的評価だからお世辞ではないよ。しかしこの自画像だけはいただけないな」 「やはりそうでしたか。自分で自分を描くことの難しさを思い知らされましたね」 と苦笑したもののかなり興奮していたことは確かであった。 「ところで話は変わるが、年内に画会を開いてみないかね」 思いも寄らぬ提案にすぐさま飛びつきそうになったが売るための絵が少ないことに気付いて思い留まった。 そのことを率直に話すと、江口氏は勿体ぶったように一呼吸置いて言葉を繋いだ。 「創業したての明治末期の頃なんだが、四谷にも事務所があってね、勿論私が入社する前の話だ。その建物を数年前に改築して画廊にしたんだよ。社長が後援している二、三の画家に展示させることもあるし、若手の芸術家に発表の場を無償で提供することもある。その場合、社長自らが作品を見た上で開催の諾否を決定することが殆どだが、森下君の場合は例外だ」 「恐れ入ります。場所は四谷のどの辺りなのですか?」 「大木戸の近くだよ。四谷画廊を知らないか?あれはうちの画廊なんだ」 「そうだったんですか・・・ええ、勿論、四谷画廊は知ってます」 「良かったら君もやってみないか。絵はこれから沢山描いていけばいい。年内を目標にしようじゃないか」 「それは願ってもないことです。しかし、社長にはまだ拝眉の栄を得ておりませんが」 「君のことは何もかも話してあるから心配しなくてもいいよ。但し時間を作って一度社長の家に来てくれないか。母にも会ってもらいたい。なぜなら母も絵が好きな人だからね」 と言って意味深げな笑みを浮かべた。 「不知火先生のお宅にも君の絵があったな。あれは妻君が購入したそうじゃないか」 「お恥ずかしい話なんですが、当時生活が困窮を極めていまして先生にお願いに上がったことがあるんです。それなら絵と交換しましょうと、その時妻君が申し出てくれたんですよ」 「なるほど。じゃあ妻君の御遺志を継ぐことになるのは母かもしれないな」 と今度は呵呵と笑った。 「それと、用立てたい時があればいつでも言ってくれて構わないよ」 「わかりました。御厚意に深謝します」 「先生の御遺志を継ぐのは私だからね。先生には大変お世話になった。江口社長の知遇を得られたのも先生のお陰だからね。賭けだと思って、何年か先に絵を貰うつもりで後援させてもらうよ。さて、そろそろ失礼するとしよう。これから品川の工場を視察しなければいけなくてね。君の妻君にもよろしく伝えてくれ」 戻る 12へ |
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