地 獄 の 接 吻 (8) 須美子の肖像画を制作している合間に、僕たちは実家の三島六反田から錦田辺りまで南下して、度々写生に出掛けたものである。 小高い丘の上から、東は箱根に繋がる緑に覆われた丘陵を、南は遠く田方の平野、天城連山を望み、北は霊峰富士の全容に抱かれながら二人だけの時間を過ごした。 穏やかな鳴き声を響かせ悠々と弧を描く鳶を追うようにして顔を上げると、ゆっくりと旋回している影の背後には青く透き通った空があり、久しぶりに故郷の秋を堪能している気分に浸りながらカンバスに絵筆を走らせていくのを、傍らで寛ぐ須美子が嬉しそうに頬を緩ませて見ていたが、その表情は僕と時間を共有していることの喜びに満ち溢れているかのようであった。 「絵を描いている時、何を考えていらっしゃるの?」 ゆっくり気の向くまま描き続けている僕に、須美子がこう尋ねてきた。 「殆ど無心だよ。でも、今は須美子が何を考えているのだろうと考えていたんだ」 「まあ。わたしは和真さんの絵にただ関心するばかりでしたのよ」 「絵を描いていると、おかしなもので、見慣れていたはずの風景が全く違うものに見えてくるんだ。そう感じれば感じるほど、満足のいく作品に仕上がっていくものだよ」 そして僕はいつしか美しい風景の中に入り込んで、絵の中で須美子と戯れているような感覚になったものである。 故郷に戻ってからは絵筆を握ろうともしなかった僕が、こうして日々カンバスと向き合うことが出来たのも、また、肖像画を当初の予定よりも早く完成させることが出来たのも、何より須美子のお蔭であったと言っていい。 彼女のふとした表情が観る者に語りかけ、内的感情が伝わってくる一枚と為り得ただけでなく、愛しみを持った感情移入がはっきりと感じ取れていたことは何より僕を満足させた。 絵が完成した後、左下にサインをし、裏面には「籐椅子の女」というタイトルと僕たちの名前を書き入れ、「大正十二年十月二日」と日付を入れて終わった。 しかしその後も、僕は憑りつかれたように絵を描き続けたのである。 再び上京するまでに完成した油絵は、「籐椅子の女」を含めて十五枚で、その内須美子と写生に出掛けて描いた風景画が十枚、僕の両親の肖像画が二枚、源兵衛川で竹竿を振り合い手拭いの糊を洗い流す職人たちの姿を一枚、そして脳裏にこびり付いて離れない震災の凄惨な光景を描いた絵は、当然のことながら最も暗い作品となった。 下塗りの明るい色調と、雲や遠くの民家に置かれた白のアクセントが明るさを強めている故郷の絵画に対して、死体で埋め尽くされた隅田川で、舟に乗って火焔地獄から逃れようとする数人の男女の姿を描いた作品は炎の赤と闇の黒との対比であった。 「これは和真さんね?」 その絵が完成した日、須美子がアトリエに来て、舟のヘリに掴まる避難民の中の一人を指差しながらこう言った。 「そうだよ。どうしても一枚は描かずにはいられなくてね。極端に明るい絵は底が浅いと嫌う人も多いけど、こういう類の絵は意外に受けがいいものなんだよ」 「でも、あの日のことを思い出してしまいそうだわ」 「君はすぐに避難所へ逃げられたからまだ良かったはずだ。あの時は本当に死ぬかと思った。この絵はただ恐怖とか死を感じてもらうばかりではなくて、その向こう側に誘(いざな)おうと試みてるんだ。そこに生じる充足感が郷愁のように湧き起こってくれれば文句なしだよ」 僕はそれに「死の彼方」というタイトルを書き入れたが、新たな画家人生の始まりと信じてやまなかったこれらの絵が、のちに数奇な運命を歩むことになろうとは想像だにしていなかったのである。 須美子もそんなことは露知らず、 「この絵はどうされるの?」 とある日イーゼルに立て掛けられている「籐椅子の女」を前に興味深そうに尋ねてきたので、てっきり欲しがっているものと思い、 「記念に飾っておけばいいよ」 と言ったのだが彼女は首を振った。 「この絵も他の絵も東京へ戻ったら出品なさったらどうかしら」 「へえ。君がそんなことを言ってくれるとはね。しかし一人で東京に戻るのは心細い」 「ええ。ですから、この絵と一緒にお戻りになるんでしょう?」 「うん、そうだよ。一緒にね」 愛らしい須美子の瞳をひたと見つめ、真意を汲み取ってくれぬものかと願う気持ちでじっと答えを待っていたが、伏目がちになってほんのり頬を赤らめた彼女は何も口にしない。 しかし、本心であるのかどうかを確かめるかのように、彼女は照れ臭そうにそっと上目遣いになって僕の目を見た。 「但し、もう少し先になる。東京はまだ瓦礫の山だろうからね。君もそれまではここにいるんだろう?」 「もちろんですわ」 「じゃあ僕もそうしよう」 「それまではこちらで絵を描かれるんでしょ?」 「何なら、また君を描いても構わないよ」 須美子は着物の袖を口元に添えると小さく微笑み、お互いが差し伸べた手を握り合うと、見つめあい、額を擦り合わせ、やがて僕たちは口づけを交わしたのだった。
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