地 獄 の 接 吻 (7) 次の日の朝早い時間に、赤地の色鮮やかな模様銘仙の着物姿で現れた須美子は、スモックを着た僕と既に準備されていた画材を見るなり、改めてモデルという役目を担うことに対する緊張感で気持ちが高まっている様子であった。 窓際のそばの籐椅子に腰掛けさせ詩集を一冊渡し、 「それを膝の上に置いて黙読しててくれ」 と要求すると、須美子は緊張を解きほぐすかのように声を出して読み始めた。 「姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く、ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き・・・何て暗い詩なんでしょう」 「最後まで読んでご覧。僕は美しい詩だと思うよ」 「これを黙読するだけでよろしいのね?」 「うん、そうだね。作られた表情より日常のさりげない自然な瞬間の方がより生身の君を感じさせるだろう。でも何かいい案があれば聞こうか」 「いいえ。特になくてよ」 頁が開かれている詩集を見つめる朝焼けのように清澄な須美子の瞳が、擦りガラスの窓から差し込む木洩れ日によって微妙な色彩を生み出し、その柔らかい光が彼女を包み込んでいるようであった。 二階の狭い部屋で相対する僕たちの距離は四尺程だったが、それが近すぎると恥らう彼女に、各部分の構造がよく見える位置にある方がいいからと言い聞かせた。 「離れて描くのは全体の大きな調子を掴み取るのにいいが、今回ばかりは近くで見れば見るほど都合がいいんだよ」 「それにしても、もう少し距離を置いてもいいんじゃないかしら。じっとしていられないわ」 「構わないさ。自然のままでいい」 「そんなこと言われても・・・」 と豊かな頬を紅潮させていたが、イーゼルに立て掛けられたF十二号のカンバスを滑る木炭の音に耳を澄ませ、位置関係に留意しながら素描していく筆の動きをうっとりと眺めている様子であった。 艶やかな肌、きゅっと結んだ唇、ふっくらとした顎、涼やかな眉、静かに詩集を見下ろす切れ長の目、そして整った鼻から細く吐く息は柔らかな暖色で、目の前の物の輪郭をぼんやりと溶かしていくようだった。 デッサンの線に従って大きな筆で塗り分けていき、時には細い絵筆の先を持って目を細めカンバスに体を近付ける僕を、度々横目で見る須美子の顔が、無言の喜悦の波で徐々に柔和な表情に変わっていくのがわかった。 静謐な空間に様々な感情の波が押し寄せては引いていき、激しく脈打つ鼓動が絡み合うのを無意識に感じていたからであろうか。それは僕たちの意識がずっと深いところで繋がり合っていたからだと思うのである。 モデルを前にして絵を描いたことは何度もあり、多かれ少なかれ、似させたいという意識から離れ切ることはなかったが、この時の僕は例外で、自らの美意識に向かって突き進んでいこうとし、そこに須美子とは別の世界が拡がっていくような感じがした。 いつしか自分一人の思いの中に沈み込み、異世界の中を自由に飛び回っているような感覚になったものである。 完成してから見てくれと忠告していたにもかかわらず、休憩の折に途中まで描いた絵を覗き見て、 「知らないわたしを見ているようだわ」 と須美子が言った時、その不思議な感覚が結実されつつあることを内心喜んだ。 「そりゃあそうだ。画家はモデルの心まで描けるものだからね」 と少々見栄を張ってみたが、瞬間瞬間の感情の起伏をつぶさに感じ取ってカンバスへ塗り込むのが画家の真髄であり目標でもあるから、満更嘘でもない。 ただ、無心に眺めていると、わたしを描いてくれと語りかけてくるように感ずる場面に出会うのもまた何とも不思議であった。 全体を覆う無形の美と、顔や眼に宿る心の美の生きた感じを直にカンバスに籠めようとの熱意に、最大限に応えようとする須美子の様子が手に取るようにわかったのも、いつしか僕たちが、尖鋭な精神の交互作用によって触発し合う意識下の交感に夢見心地であったからであろう。言葉に依存せずともそれ以上の共感を生んでいた。 また、この時ほどモデルと協同して絵を作り上げているという意識を強く感じたことはなく、僕がこれまで如何に表面的な部分にしか目を向けていなかったかを思い知らされる結果にもなった。 単に形状や立体感ばかりでなく自己の奥深いところにまで入り込み、意識の共有を果たすことが、モデルを置き去りにしないことにもなる。 つまり、僕と須美子は触れ合わずとも、肉体の奥底に降りて行き、深い出会いを毎日繰り返していたのであった。
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