地 獄 の 接 吻 (6) さて、再会した僕と須美子は、源兵衛川で洗った藍染の布から青い水が流れていく光景を一緒に眺め追懐し、疎遠であった上京後の出来事を語り合った。 絣銘仙の着物に断髪の須美子は、和に洋の要素が入ったモダンテイストの流行に敏感な都会の女性のようで、装いだけはかつての彼女とは違っていたが、手を口元に添え小さく笑ったり、瞳をやや伏せながら話すところなど、淑やかさの中にも気品漂う楚々とした雰囲気があるのは、昔とまったく変わっていなかった。 僕より二つ若い二十四歳になっていたが、少女から大人の女へと変わる一瞬の美を纏(まと)っているかのようであった。 「君が上野で働いていたことは知っていたよ」 僕がこう言うと、須美子は、あらと声を上げた。 「でも、和真さんは一度も来ていただけなかったわね」 「松坂屋なんぞは敷居が高くて困る。僕のような貧乏画家風情が行くところじゃないさ」 「まあ。でもお描きになった絵が二度入選されたって仰ったじゃない」 「買い手が付かなければ画家商売は食っていけないんだよ」 「見せていただけないかしら?」 「それが、残念ながら焼けてしまってね。展示されていた絵も見るも無残な姿になってしまった。しばらく絵筆を持っていないんだよ。敬愛していた先生が震災でお亡くなりになったことも影響しているのかもしれないな。ここには写生旅行に来たつもりになってみても、なかなか描く気になれなくてね」 「初めて入選された絵はどうなさったの?」 「あの絵だけは四十円で買い手が付いたんだよ」 「それはどんな絵でしたの?」 「『三人の婦人』と言ってね、緑濃い森の奥深くで、太い樹木の下で戯れる妙齢の三人の婦人を描いたんだ」 「まあ。ぜひ見せていただきたかったわ」 「これからはもっといい絵を描いてみせるさ」 そこでふと僕は、須美子の愛くるしい上目遣いの瞳を真っ直ぐ見据えて、故郷に戻ってきて以来ずっと抱いていたある考えを口にしてみたくなった。 「ねえ、お願いがあるんだ」 「何かしら?」 「君を描かせてくれないかな」 須美子は驚いたように着物の袖を口元へ持っていくと、えっと小さく声を上げた。 「そんな、わたしなんか」 「なあに、そんなに畏まらなくてもいいんだよ。ぜひ描いてみたい」 「でも・・・他に描けるようなものが沢山・・・」 と言って、民家が軒を連ねるその彼方に緩やかな裾野を四方に広げる富士山をそっと指差したが、僕は破顔して首を振った。 「まだ描く気にはなれないし、だいいち、日本の風土に油絵で描ける画題は少ないと僕は決め付けているんだよ」 「わたしこそ向いてないんじゃないかしら」 「そんなことはないさ。女性は僕たち画家にとっては最も良き終生のモチーフだし、喜びであり、最も興味ある手本だからね」 須美子は着物の袖で口元を抑えながら、川の流れを静かに眺め考えている様子だったが、しばらくすると決心が付いたのか、 「どのくらいで描き終わるの・・・?」 と躊躇しいしい問うてきた。 「今回は早くて二週間だな。家の二階の一間を当てがわれているからそこで描くことにしよう」 「あの・・・和真さん」 「何だい?」 「お着物でよろしくて?」 「もちろんさ。それとも、何かな、裸にでもなるつもりだったのかい?」 「まあ。どうかと思うわ」 須美子は困ったような顔をしてこう言った。 僅かに西の空に移行しようとする太陽が、地平線上の空に伸び拡がった入道雲を美しい淡い朱色に輝かせ、穏やかな川の流れを染め始めた頃になっても、僕と須美子は語り合い、やがて地平線の下方へ引っ張られるように夕陽が急いで沈んでいき、東の空が薄暮となって蛍が飛び交う幻想的な美しさに見惚れながら、その日はそこで別れたのだった。
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