地 獄 の 接 吻 (5)

 

 東京が震災の打撃から復興していく過程を僕は見ていない。
なぜなら、千駄ヶ谷のアトリエの残骸から使えるだけの画材をかき集めたのち、東京を引き払い郷里である静岡県田方郡三島町に戻ったからだ。
大場君が北海道の実家に無事帰り着いたということ、不知火先生が新橋で妻君もろとも火流に巻き込まれ焼け死んだということも、郷里に戻ってから知ったのである。
江口氏とは結局会えずじまいで、不知火先生の御遺志からと思われるが、アトリエを提供してもいいと手紙をもらった。しかし、急遽中止となった上野の二科展に出展していた二枚の入選作品が損傷し、アトリエにあった数十点の作品が全て焼失してしまったことが創作意欲を削いだため、御厚意は有難いがしばらくは実家に留まる旨の返事をし、その後は絵筆を持つことなくぼんやりと過ごしていたのだった。
 僕の実家は藍染めを生業としている所謂紺屋で、藍を湛えた藍甕(あいがめ)が並ぶ土間に、ほどよく醗酵した際に立つアンモニアにも似た匂いは懐かしく、日当りのよい裏庭に布が張られ糸が干されているのは昔と変わらない。子供の頃から目にしていた日常の光景であったが、苦々しい思いと一緒くたになり複雑な心境であったのは、後を継がせたいとの両親の考えに反して画家になることを望み上京した過去がいやが上にも去来することとなったからである。
二科展入選という唯一の誇りを引っ提げて帰郷したものの、いまだ大成出来ないまま舞い戻ってしまったことは、やむを得なかったとはいえ肩身の狭い思いがしたものである。
 震災で無事であったことの喜びと安堵感に包まれていた我が家の雰囲気は、日が経つ毎に、画家として一人前になり切れない僕へのあて付けのように後継者がいないことを嘆くにとどまらず、板場の長板に向かって黙々と作業をしている父に手伝うと申し出ても、神聖な場所であるから入ってくるなと言われる始末であった。
 再度上京するまでの期間、居場所を失いかけていた僕の心の支えとなってくれていたのは幼馴染の須美子で、女学校を出てから上野にあるデパートメントストアで売り子をしていた彼女が、震災に遭い帰郷した経緯が同じであったことは、お互いの家を行き来し遊んでいた昔の思い出が蘇ったばかりでなく、より一層僕たちの仲を親密にした。
須美子の家は下絵屋で、源兵衛川沿いにあった僕の実家の、二間幅の石ころ道を挟んだ向かい側に居を構えていたのだ。
藍染は、下絵師から糊付け屋、そして紺屋へと、職人の手から手へ技を繋ぎながら生み出されてゆく分業で行われるため下職は皆周辺に住み、まるで家族同然のようで活気があった。そのため僕は、物心ついてから美術学校へ入学するため故郷を離れるまでの間、親戚の家へ遊びに行くような感覚で毎日のように須美子の家に通ったものである。
白生地に青花と呼ばれる露草の花の汁で、模様などの下絵を描いていく須美子の父親の仕事場は離れにあり、こっそり覗きに行ったことも数知れない。
花ひとつの絵柄をとってみても、何度も写生が丹念にくり返され、計り知れない努力の積み重ねと必死な使命のようなものを見、絵を描く参考にするのであろう、沢山の美術書や専門書籍が並んでるその仕事部屋は、下絵師の舞台裏の、誰も知らない世界を垣間見たような気がして心躍らせ、中でも「美術之日本」や「美術新報」といった美術書は、僕が絵画に惹かれるきっかけにもなったのである。
久しぶりに仕事場を拝見した時は原点に立ち返ったような気分になったものだ。

 

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