地 獄 の 接 吻 (2) まず、事の発端は何だったのか、それを最初に話さなければなるまいと思う。 これはのちにわかったことで、悩乱の坩堝(るつぼ)に突き落とされるきっかけだったとは僕自身知らなかったことであるから、当然誰にも話したことがない。 それは今から約四年前の大正十二年九月一日の土曜日、といえば関東諸国の人々を絶望の淵に追いやったあの忌わしい大震災が発生した日であり、第十回二科展の初日にも当たった。数日前に入選の報を受けた僕の二点の絵画が、ここに出品されることになっていたのである。 そして仏蘭西へ渡っていた不知火先生が二年ぶりに帰朝されたのち、銀座のカフェープランタンへ僕をお招き下さったのもこの日であったのだ。 まずはそこから書かねばならない。 この日は朝から荒天となり凄まじい暴風雨だったことも手伝って、延期になってはくれまいかと密かに願っていた。 というのも、不知火先生が在仏中に友情を結んだ高名な先生諸氏と美術論議をするなど場違いなことは確かであったからだが、はからずも約束の時間を待たずして好天となってしまい、銀座へ行くこととあいなってしまったのである。 千駄ヶ谷町から省線と市電を乗り継ぎ、いつもと変わらぬ平和的風景であった銀座の日吉町通りは、金春芸妓の三味線稽古の音が何処からともなく漏れ聞こえ、銀杏並木が夏のぬるみの去らない風を受けさらさらと揺れていた。 カフェープランタンは、国民新聞社前、二尺大の黒塗りパレットに金文字で店名が書いてある看板を掲げた西洋風の建物で、醒めらやぬ巴里の夢を追う留学帰りの画家連中の社交場として有名だったこともあり、僕も画家になりたての頃に一度だけ来たことがあった。 女給に二階の日本間に通され腰を落ち着かせようとする暇もなく、きりりと紋付袴に身を固め山高帽を被った先生方がおいでになり、不知火先生は只お一人、背広服にパナマ帽、細身のステッキという出で立ちで、僕だけが流行などというものに縁のない安物の着物であったから、何とも恥ずかしい限りで居た堪れなくなったものである。 先生諸氏はまず、二年ぶりに二科展に入選したことを祝してくれたが、横浜の伊太利亜人の店で特別にブレンドしたという珈琲を飲みパイプの煙を燻らせては、渡仏がいかに有意義であったかを、ブラマンクのアトリエを訪れたことやらサロンドートンヌ展のことなどを採り上げ、すこぶる御満悦の体で詳らかに話して聞かせるのであった。 しかし、近頃の画家は粗末な殴り書きが多くなったなどと先行きの西洋画界を憂う話題に話が移ると、益々居心地が悪くなり言葉を差し挟む余地すらなかったが、僕の様子を見てひどく退屈していると思われたのか、不知火先生は、 「実はだね森下君。我々は、秘密裡に新しい団体を結成する運びなんだよ」 とロイド眼鏡の奥から目を輝かせ、興奮した面持ちで仰った。 仏蘭西で友情を結んだ同志である先生方と、新たな油彩画の創造を目指さんとする主旨で、既存の団体を脱退し美術協会を設立せんと目論んでいるとのことなのである。 さては僕を賛同せしめんがためにお招き下さったのかと勘繰って、先生への恩義に報いる心理作用から共鳴してくれることを期待されているのではないかと思った。 仏蘭西で前衛的なフォービズムにかぶれ、外光派風の明快な写実主義に疑問を抱いて変革をもたらそうとする先生のお考えには賛同致しかねたので、その旨正直に申し上げたのである。 すると不知火先生は、 「ハハハ。明快明快」 と凛としたカイザル髭を指先で撫でながら快活に笑われ、他の先生方もつられるようにして呵呵大笑された。 「何も説得しようなんて気はない。失望させたかもしれんが画家というやつは絶えず変化を伴うものだからね。私から教えることはもうないのだよ。だから自分が信じる道を歩めば良い。しかし、これまでのように君と関わっていくことは難儀となろう。つまり経済的支援をすることも甚だ困難になる」 「それは仕方がありません。いつまでも先生に頼りっきりではいられませんからね」 「いや、安心してくれたまえ。実はだね・・・丁度良い人物がいるから引き合わせたいのだ」 「僕にですか?」 「江口君のことは知っているね」 「江口・・・といいますと美術学校の先輩でしょうか?」 「そうだよ。その江口君だ」 「在学中極度の近視になって実業家に転身して、その後江口製作所の創業者の娘婿になったと聞きました。それで江口姓になったとかで」 「うん、そうだ。彼は変り種だ」 「四年前、僕が個展を開いた時、先生が江口さんを呼んで下さったことがありましたね。あの日一枚買って下さったんです」 「よく憶えてるよ。私の妻が君の絵をいたく気に入って買ったことがあるだろう。江口君が私の家を訪れた際、これは誰の絵ですか、ぜひ会わせて下さい、とこう言ってね、それで君の個展に案内してあげたんだが、先日会った時も、ぜひ君に会って前向きに話がしたいと言っていたんだよ」 僕のような貧乏画家には願ってもないことであった。 先生は、いかにも妻君が絵を気に入り購入したかのように話したが、それは妻君の有難い入れ知恵で、僕が先生に資金援助を申し出た時貸付金として扱わず、絵と交換してくれたというのが実情なのである。 仏蘭西ではパトロンがお抱え画家の絵を売るための店を出しているという話が先生方の話題にも上っていたが、日本もそれと大差なく、絵画を売り拡めんがためには有力な後援者の知遇を得ることが必要不可欠なのである。 「江口君の家は谷中にあってね、四百坪の地所に建つ二軒長屋だよ。住所と地図を渡しておくから行ってみるといい。何なら今日二科展へ案内してあげてもいいんじゃないか。どれ電話してみよう」 先生は一階へ降りられ自動電話で連絡をされると、江口氏は自宅に居られたようで、これからでも構わないから来てくれとのことであった。 他の先生方も大変喜ばれ恐縮したが、不知火先生はおもむろに上着のポケットから懐中時計を取り出されると、 「おや、もう十一時をとっくに過ぎておる。いかんいかん、妻と新橋で約束があるんだ」 と仰り、僕の肩に手を触れられると、二科展にはあとで行くとだけ言われ、語らいの場はそこで打ち切りとなったのだが、これが先生の最後の御姿になろうとは誰が想像しえたであろうか。
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