尾 行 (2) 午後六時半に、水道橋駅で矢野と待ち合わせた亜矢子は、その足で東京ドームに向かった。 既にゲームは始まっていたが、それでもまばらな人の列は、駅からドームまで絶えなかった。 亜矢子たちは、正面ゲートより向かって左、三塁側のゲートに向かった。 そこには係員が数名、ゲート23の前に立っている。 「あの、すみません」 矢野が、これまで聞いたこともないような女々しい声音で、若い係員の男に声を掛けた。 亜矢子は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。 「友達が私たちのチケット持って中に入っちゃってて、携帯電話で連絡しても、ずっと留守番でどうにもならないんです」 「はあ・・・といいますと・・・」 「東京ドームに来るの初めてで、座席番号なんて憶えてないし、困ってるんですけど、係員さんお願いです。彼女と一緒に中に入れていただけないでしょうか?中に入って友達を見つけ次第、チケットをここまで持って来ますので」 「ええ・・・まあ、そういうことでしたら、どうぞ、お入り下さい」 「ありがとうございます、すみません。さあ、行きましょう奥様」 亜矢子がそれに続いた。 伝統の一戦というだけあって、観客の入りとその熱気は想像以上だった。 矢野に、あらかじめ知らせておいた座席の位置を確認してもらうと、それはちょうどダッグアウトの真上だった。 亜矢子は、柱の影から、矢野が目標とする座席まで、周辺に目を配りながら歩いていくのをこっそり眺めていた。 すると、年配の男が座っているその横に、背を向けて観戦しているカップルの姿が目に入った。それは、亜矢子の位置からも確認出来たが、男の方は紛れもなく、夫の徹だった。矢野は、写真を見ているので、すぐに徹だとわかったらしく、横目でチラッと確認した後、すぐに亜矢子の許に戻って来た。 「おられましたね」 「やっぱり!女は私が相撲中継で見た女と似てました?」 「ええ。年は私と同じか、やや若いでしょうか。黒縁の眼鏡を掛けた、色白の、細面の女性でしたよ」 しばらくの間、亜矢子と矢野は、柱の影から、二人の動向を見守ることにした。 女が手にしているポップコーンの入った容器に、徹が手を伸ばして食べたり、それを彼女の口に放り込んだりしている。 飲み物はそれぞれ手にしているが、途中で交換したようだった。背中越しからでも、それを美味しそうに飲む夫の顔が目に浮かぶ。 「奥様。落ち着いて下さいね」 「ええ、ちょっと腹痛が。でも大丈夫です。生理中でも制御不能になって暴れたりしませんから」 と言った後、徹が女の肩に腕を回し、何やら額を寄せ合って話し始めた。 亜矢子は口をへの字に歪め、不愉快極まりないその光景を、我慢強く眺めていた。 試合は、八時を過ぎた時点で七回を終わり、二対一で巨人がリードしていた。 ちょうどその時、女の方が席を立った。 「あ。トイレだわ」 亜矢子が、誰に言うともなく口を開いた。 「隠れて下さい。奥様の顔を知っているかもしれません」 女は席を立った後、通路を歩いて、コンコースへと姿を消した。それを確認した矢野が、 「もういなくなりましたよ」 と声を掛けた。しかし、柱の後ろに隠れていたはずの亜矢子の姿はなかったので、矢野は急いでコンコースへと向かうと、女の後方約三メートル程の間隔を空けて、亜矢子が歩いているのを見つけた。 矢野が走り寄り腕を掴むと、亜矢子は、 「私のことなんか、あの女、知るもんですか」 と言い放つ。 「ばれたら水の泡ですよ」 「違うの。本当にトイレに行きたいの。わかる?あれよあれ」 矢野は仕方なく、亜矢子に付いて行った。 しかし、女はトイレではなかった。 予想に反して向かった先は売店で、そこで彼女はハンバーガーとビールを注文した。 矢野の制止もきかずに亜矢子は彼女の横に立って、 「ホットドッグ、プリーズ!」 と叫んだ。 それを聞いて店員は笑ったが、浮気相手の女も、亜矢子を一瞥して含み笑いをした。 「ごめんなさいね。ちょっと酔っ払ってるの」 生理中でちょっと不安定なの、とは言わなかった。 亜矢子は女に話しかけた。彼女は笑みを浮かべて軽く頭を下げた。 近くから見ると、彼女は更に若く見えた。大学生と言ってもおかしくはない。ひょっとすると、本当に学生かもしれなかったが、実に愛らしく、初々しい雰囲気さえ漂っている。それに笑窪が特徴的だった。 「どちらのファン?巨人?西武?」 「えっ?西武?今日は阪神戦ですよ」 「ああ、そうね。まあどっちでもいいわ」 「巨人ファンなんです」 「今日はお一人?」 「いいえ。彼と一緒です」 「そう。彼は何処のファンなの?」 と尋ねている最中に、店員がハンバーガーとビールを差し出した。 女は勘定を払いながら言った。 「彼は阪神ファンなんです。でも、三塁側の席を取ってくれて」 可愛らしい笑窪を作りながら頭を下げて挨拶をすると、女はその場から去って行った。 「奥様。何てことを」 冷や冷やしながら二人のやりとりを見ていた矢野が、背後から小声で話しかけた。 「あの笑窪にやられたのね、あの人」 とぽつりと呟いた亜矢子に、矢野の声は聞こえていなかった。 それから一時間後の九時過ぎ頃に、試合は終了した。阪神の逆転勝ちだった。 場内が一斉にざわつき始め、席を立つ客で溢れ返った。 徹と女の二人も、試合が終わるや否や立ち上がり、早足に内野席を去って、出口の方角へと向かって行った。 それを見届けた亜矢子たちも、後を追おうとしたが、ますます人でごった返して、何とか掻き分けるようにして進んで行くと、既に徹たちの姿はなく、駆け足でゲートへと向かった。そこで、ちょうど外に出ようとする二人の姿を捉えた。危うく見失うところだった。 入場時に話しかけた係員が立っていることに気付いた矢野は、顔を伏せながらどさくさに紛れてゲートを後にすると、すぐ様後を追った。 徹と若い女は、手を繋ぎながら、水道橋駅に向かって歩いていた。傍目から見ると恋人同士そのものである。それが何より、亜矢子の癪に障った。 水道橋駅で総武線に乗った二人は、秋葉原駅で下車した。 亜矢子たちは隣の車両に乗り込んでいた。 昭和通り口に降りた二人は、そのまま駅前の喫茶店に入って行った。 亜矢子たちは、その真向かいのファーストフード店に入り、喫茶店の出入り口が見える席に座って、二人が出て来るのを待つことにした。 「これから何処に行くのかしらね、あの二人」 フライドポテトを頬張りながら、亜矢子が言った。 「ひょっとすると、あの女性を、自宅まで送ってあげるのかもしれません」 紙コップに入った水を飲みながら、矢野が言った。 「矢野さん。今日何も食べてないでしょ。どうぞ、これ」 矢野は手を突き出して、「結構です」と断った。 「夜は食べないことにしているんです。お気持ちだけ頂戴致します」 「あらそう。私は何か口に入れてないと落ち着かなくて」 ファーストフード店が店仕舞いをする直前の、午後十一時前に、喫茶店からあの二人が出て来た。 「さあ、行きましょう」 二人が慌てて店から出た時、徹は駅前に停車していたタクシーに乗り込んだところだった。 その後ろに停車していたタクシーに乗り込もうとしていた中年のサラリーマン風の男を、亜矢子が半ば突き飛ばすような格好でタクシーに乗り込み、 「あのタクシーを追って下さい。早く」 と後部座席から運転手に指示した。矢野は助手席に座った。 「どうしたの?何かあったの?」 顔を歪めて息を弾ませている亜矢子の様子を見るなり、怪訝そうな面持ちで運転手が尋ねた。 落ち着き払っている矢野が、それに答えようとしたが、亜矢子が先に口を開いた。 「あれに夫と女が乗ってるんです。見失わないで下さい」 それを聞いた五十がらみの運転手は、 「何?」 と低い野太い声で呟いたかと思うと、アクセルを強く踏み込み、車両を一気に数台追い抜いて、徹たちが乗るタクシーの真後ろにピタリとくっ付いた。 矢野は心配そうな顔つきで運転手の横顔を見ていた。 「なあに、撒こうたってそうはいかないよ」 車は昭和通りを北に向かって走り抜け、上野駅を過ぎ、入谷、三ノ輪も通過して、荒川区に入ると、隅田川を渡った。その先は足立区だった。 それまで、徹たちの乗る車両の、すぐ後ろに付いていたタクシーは、そこから、乗用車一台を間に挟んだ状態で追跡した。 やがて車両は、環七通りとぶつかったところで左折し、そこから二百メートル走ったところで、停車した。 亜矢子たちの乗ったタクシーも、その後方で停めてもらった。 矢野が料金を払っている間に、亜矢子がタクシーを飛び出して、二人の動向を窺っていた。 「見て、矢野さん。二人はあそこに入って行ったわ」 亜矢子が指差したのは、環七通り沿いに建つ、真新しい十階建マンションで、そこは恐らく、あの女の住まいに違いないだろうが、それにしても外観からして高級そうな雰囲気を醸し出している。 ひょっとすると、夫が家賃の一部を負担してあげているのかもしれない。亜矢子はそう思った。というよりも、確信していた。 車を買い換えたいと、口が酸っぱくなるほど言っておきながら、その金は全部女に流れていたというわけね。 「さて、どうしましょうか」 矢野がマンションを見上げながら、亜矢子に尋ねた。 「ご希望でしたら、このまま見張っていることも可能ですが、どうしますか?」 「そうね・・・。出来たらもうしばらくここにいたいわ。まああの女の居所もわかったし、ここで引き上げてもいいとは思うんだけど、どうも治まらないのよね、私の気持ちが」 「しばらくは治まらないと思いますよ」 「そういえば私、明日は出勤するんだった」 腕時計に目をやると、とっくに日付が変わっていた。 そして再びマンションの入り口に目を向けた時、徹と女が、そこから出て来たのを見て、二人は驚いた。 「これからまた何処へ行こうっていうのよ」 矢野に腕を引っ張られながら、亜矢子は舗道の木陰に身を潜めた。 徹たちは、マンションの前にある歩道橋を渡ると、向かい側にある駐車場に入って行ったようだった。 「タクシーを拾いましょう」 通り過ぎようとしていたタクシーを、矢野が咄嗟に手を上げて停めた。 そしてしばらくそのまま待たせておいて、駐車場から車が出て来るのを待った。 五分程経った頃だろうか。一台の白い乗用車が、ゆっくりと駐車場から出て来て、環七を右折した。 「運転手さん、あの車を追って」 またもや指示したのは亜矢子だった。 白髪混じりの運転手は、一度「えっ?」と耳に手を当てて聞き直したが、矢野が大きな声で言い直すと、わかった、という風に何度も頷いて、車を発車させた。 白い乗用車は、環七通りを真っ直ぐ突き進んでいた。 王子を過ぎて板橋を通過し、練馬に入ると、一旦車は路肩に止まった。 すると運転席から徹が出て来て、コンビニへ入って行った。 亜矢子たちはその様子をじっと見守っていた。 しばらくすると、缶ジュースでも購入したのか、袋を手に出て来た徹は、再び運転席に乗り込んで、車を走らせた。 タクシーもそれに続いた。 車はしばらく環七を走っていたが、早稲田通りとの交差点で右折し、それから少しばかり走った後、停まった。 「停めて下さい」 と矢野が言ったが聞こえなかったようで、運転手は白い乗用車を追い抜いてしまった。亜矢子が振り返ると、乗用車は停まったままで、二人が出て来る気配はなかった。 「停めてったら!」 矢野が声を張り上げたのと、彼女の脚が伸びてブレーキを踏んだのが同時だった。運転手は仰天して反り返り、「な、な、何だ?」と素っ頓狂な声を上げた。 矢野は一度、「ゴホン」と咳き込むふりをすると、丁重に礼を述べて、料金を支払った。 亜矢子たちは車から出ると、豆腐屋と美容院の間の隙間に隠れた。二人がここに何しに来たのか、亜矢子には全く見当がつかなかったし、夫だけならまだしも、女まで連れて来るとは、その真意も推し量りがたかった。 「どういうことかしら・・・。矢野さん。あなたはどう思う?」 「わかりません。どういうつもりなのでしょうか」 五月でも、真夜中となればひじょうに肌寒い。深々と体が冷え込んで、何より亜矢子にはそれが堪(こた)えた。 しかし、そんな辛さも消し飛ぶほどの緊張感が、亜矢子の体を支配していて、それまで度々襲った腹痛や腰痛も、もはや神経が麻痺してしまったかのように、全く感じられなくなっていた。 そうして、息を潜めてじっとしていると、乗用車の両方のドアが、ゆっくりと開き、運転席からは徹が、そして助手席からはあの女が出て来た。 二人は、一旦車の前で、こそこそと話し合っていた。 そして徹が、彼女の手を引くようにしながら、細い路地に向かって歩き出し、その後を、亜矢子と矢野が追って行った。 人通りはない。僅かに、走り過ぎて行く車の音が、後方から聞こえてくるだけだ。 徹たちは、ある一戸建ての前で立ち止まると、女を玄関前に待たせ、鍵を使って家の中に入って行った。女は、しきりに辺りの様子を窺ってるようだった。 しんと静まり返った真夜中の住宅地である。物音ひとつ立てようものなら、すぐに気付かれてしまうのだ。 亜矢子たちは、人家の物陰に隠れていた。 その時だった。 玄関のドアが勢い良く開き、そこから飛び出して来た徹は、女の手を取って、一目散に、車を停めてある通りへと、ものすごい速さで走り去って行った。 「ここからは私に任せて下さい。奥様はご自宅の様子に変化がないか、見ておいて下さい」 そう言い残した矢野は、二人の後を追って、注意深く警戒しながら、早稲田通りの方へ去って行った。 亜矢子は自宅に戻った。 開けっ放しの玄関のドアから中に入る。 特に、夫が荒らした形跡はない。 一階を一通り見終わった後、疲労を感じ始めた足を持ち上げるようにしながら、一段一段、階段をゆっくりと上って行った。 まず、夫の書斎を覗いた。ぱっと見たところ、特に変わった様子はない。 よく調べれば、何かわかるかもしれなかったが、亜矢子にそんな体力は残っていなかった。 休みたいな。とりあえず、ちょっとだけ横になりたいな。 そう思って、寝室へ行き、電気も点けずに、ベッドに横になろうと体を投げ出した瞬間、背中に違和感があった。 人が横になっていることに気付いたのだ。 「森岡さん!あなたね!」 布団を剥ぎ取ると、果たしてそこには、亜矢子と勘違いされ、胸を一刺しにされた、森岡の死体があった。 最後に調査員の矢野に会ったのは、それから三日後のことだった。 成功報酬の支払いを済ませて、応接室でこれまでの経緯を話した亜矢子は、矢野に感謝の言葉を口にした。 「あなたはまだ若いから、もっと立派な調査員になれるわね。これからも頑張るのよ」 「結果的には残念だったとしか言いようがないのですが、ご主人とは違って、奥様には、まだまだこれから先、長い人生が待ってますよ。陰ながら応援させていただきます」 「ありがとう。結局、何もかも、私が想像していた通りの結果だったってわけね。でもね、ひとつだけまだ悩みがあるのよ。両親にはまだ何も話してないの。嘘みたいでしょう。今日こそは話さなきゃって思ってるわ」 「じゃあ、そう思われたらこの場で、お電話してみたら如何ですか?」 「そうね。家にいるかどうか、まず確認してみないとね」 亜矢子はその場で、携帯電話を出して、母親の電話にかけてみた。 すると、衝立で仕切られている、隣の応接間で、携帯電話の呼び出し音が聞こえてきた。 亜矢子は、電話から母親の声が聞こえてきたのと、隣の応接間の携帯電話の呼び出し音が消えたのとが、ほぼ同時だったことに気付いた。 「亜矢子?久しぶりね。あのね、お父さんがまた家出したでしょ」 戻る HOME |
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