尾 行 (1)

 

 平日は午後六時まで、輸入家具専門商社で事務仕事をしている宇山亜矢子は、その日の朝起床すると、生理前の激しい腰痛と腹痛に襲われて、自宅で静養することにしたのだが、薬を服用しても、昼過ぎまで、横にならなければいられないほどだった。
婦人科で診断書を出してもらってから、生理休暇を有給に充てなくて済むようになった。そんな会社の理解ある対応には感謝していたが、そこに転職する際、勤務初日に生理が来そうで嫌な予感がすると思い、入社日をずらしてもらった経緯があるが、結局生理も勤務日に合わせてきてしまったという、今だからこそ笑える苦い経験も思い出し、亜矢子は布団の中で思わず「へへ」と笑った。
しかし、笑ってばかりはいられなかった。
過去の経験上、会社を休むとろくなことがない。つまり、妙な胸騒ぎを感じて仕方がなかったのだ。
というのも、これまで生理で体調を崩して、已む無く欠勤したのが二日あったが、その二日共、普段、起こり得ぬ災難に見舞われて散々だったからだ。
二十八歳から四年半勤めている今の会社で、腹痛のために初めて欠勤したのは、記録的な猛暑だった、三年前の新婚当初の夏の日。
当時はまだ賃貸マンションだった自宅で朝から横になっていると、母親から電話があった。
「あのね亜矢子。お父さんが家出したみたいなのよ」
亜矢子は耳を疑った。
理由を問い質してみると、どうやら父に女が出来たらしいということだった。
「で、いつからいないの?」
「昨日から。いつも通り出勤したんだけど、そのまま帰って来なかったのよ。携帯電話にかけても繋がらないし。会社に問い合わせたら七時には退社したって言うし。そういうわけで今日は出勤してないのよ」
「心当たりはあるんでしょう?」
「何の?」
「女よ」
「前から薄々」
「はあ?お母さんってホント、もう、何てお人好しなの?そんなに呑気に構えてる場合じゃないでしょう。それで、誰なのよ相手は」
「半年前にお父さんの同窓会があったでしょ」
母親は、亜矢子が初めて耳にする事柄に関しても、「でしょ」と言う癖があった。
「そんなの知らないわよ」
「あの頃から口髭生やすようになって、おかしいなあと思ったのよ。ほら、わかるわよね、あのいやらしい髭」
「ええ、それで何」
「かなり遅い時間に帰って来た時が何日もあって、どうしたのって聞いたら、同窓会が機縁で、度々同級生の女性と一緒だったって、言ってたでしょお父さん」
「だから知らないわよ。ああ、もう。ちょっと待ってて。とりあえず私そっちに行くから」
ところが、腹痛に耐え忍びながら自宅を出て、車に乗り、エンジンをかけた瞬間に携帯電話が鳴った。
それは母親からで、
「お父さん見つかったよ」
と言うのだった。
「何ですって?・・・で、何処で誰と何してたのよ」
亜矢子は呆れ果てた口調で言い放ったが、その声は半泣きに近かった。
聞けば、昨日の夜、泥酔していた父親は、新宿で喧嘩をした挙句に負傷して救急車に乗せられ、その後、酒気がなくなったところを、警察に保護されたというのだ。
結局、新宿まで車で十五分とかからない亜矢子が迎えにいく羽目となり、やがて警察署を訪れると、よれよれのスーツを着た父親を助手席に乗せて実家に行った。
事情は全て明るみになった。父親は、同級生の女性と男性の三人で飲み屋を梯子していたらしいのだが、年甲斐もなく立場も弁えず、泥酔した父親と男性は、その女性の奪い合いの果てに口論し、殴り合いに発展してしまったという。
父親を埼玉県内の実家に送り届けると、まるで他人事のように振舞っている母親にも不満をぶちまけて自宅に戻ったというわけだったが、その後父親は猛省して、二度と同じ過ちは犯さなかった。そう今のところは。
  二度目の欠勤はちょうど一年前の五月だ。
その日も、朝から幻暈と腹痛でベットから起き上がれず、痛みを止めたいばかりに空腹のまま薬を飲んだことも災いし、朦朧とした意識の中で、携帯電話から会社に電話をかけた。
電話に出た相手の声がよく聞き取れなかったが、男性社員のようだったので生理痛とも言いづらい。
「あの、もしもし、宇山ですけど・・・。申し訳ないんですけど、体調が思わしくないので・・・」
と亜矢子が言った途端、電話の向こうの男が、素っ頓狂な声を上げた。
「亜矢子じゃないか!一体何があったんだ!」
亜矢子は、携帯電話を凝視した。かけた先を間違えたらしい。
それはかつての同僚で、現在は失業中の森岡という男だったが、結婚前の一時期、三ヶ月間程、付き合ったことがあった。
しかし別れてからも散々言い寄られ、ある時など、合鍵を作って侵入し、待ちくたびれたのか、ベッドの中で眠りこけていたことがあった。
彼が今でも亜矢子を慕っていることは、彼女自身よく知っていたし、それは大変迷惑な話だった。
電話帳からいまだに削除していなかったことを悔やみ、亜矢子は軽く舌打ちした。
「俺に電話をかけてくるなんて余程のことなんだな。大丈夫か?今から行くぞ」
「あ、違うの、来ないで!」
と言ったが電話は切れていた。
再度会社に電話をかけ直した後、痛みに唸りながら立ち上がり、家中の鍵を掛け、全てのカーテンを閉ざして明かりを消しベッドに入った。
そこでふと、彼女は思い出した。
そういえば、彼は、以前私たち夫婦が住んでいた賃貸マンションしか知らないはずで、建てたばかりのこの一戸建ての住所は教えていない。
亜矢子はそう考えると安心し、布団の中で眠りに就こうと努めたが、腹痛が引かずに七転八倒しているところへ、家の呼び鈴が鳴った。
それとほぼ同時に、握り締めていた携帯電話のバイブが振動し始めた。森岡だろう。
きっと誰かからこの住所を聞き出したに違いない。会社の人が教えるわけはないから、きっとお人好しの母親の仕業に違いなかった。
「お母さん。ねえ、森岡さんから電話あった?」
母親は森岡を知っていたし、娘とは逆に、彼を気に入っていた。
布団にくるまりひそひそ声で尋ねると、母親がのんびりした口調でそれを肯定した。
「今ね、救急車呼んであげたからね」
亜矢子は口をあんぐりと開けてしまった。
「えっ?何ですって!」
「森岡さんがうちに電話くれてね、今にも死にそうな声で亜矢子が電話をしてきたって言うでしょ。会社に問い合わせたらやっぱり休みだって言うからね、だからすぐに救急車を・・・」
と母親が言い終える前に、外でサイレンの音が聞こえてきた。
その耳障りな不協和音に被さるように、玄関で叫ぶ森岡の声が響き渡った。
「おい!救急車が来たぞ!しっかりしろ!」
亜矢子は仰天して、パジャマ着のまま、覚束ない足取りで玄関口まで向かうと、鍵を開け、外に出た。
救急隊員が、ちょうど担架を車から降ろしているところだった。
とそこへ、にやけた森岡の顔が、突然目の前に現れて、亜矢子は腰を抜かしそうになった。
「やっぱりいたんだな。俺も病院まで付き添うよ」
「あのね・・・大丈夫なの。何でもないの!電話をかけ違えただけなの!」
森岡を押し退けて、救急車に歩み寄ろうとした途端、また腹痛に襲われて、思わずその場にうずまってしまった。
鬱陶しい正義感をかざした森岡が、救急隊員にあれこれ指示し始めたが、お門違いも甚だしい彼の指図など眼中にない隊員たちは、亜矢子に話しかけ、それまでの経緯を把握すると、無人の担架を車に戻し、状況が飲み込めずに一人騒いでいる森岡をその場に残して走り去って行った。
近隣の婦人がぞろぞろと出てきて、亜矢子の家を取り囲み、それを見た彼女は急に恥ずかしくなって謝罪した後家に戻ろうとしたが、森岡は執拗に話しかけてきた。
しかし、彼も、野次馬の好奇の目に晒されていることに、さすがにひるんでしまったと見えて、急に猫撫で声になった。
「ねえ・・・今夜食事でもどう?近所にトルコ人がやってる美味い寿司屋があるんだ」
亜矢子は彼の鼻先でドアを勢い良く閉めた。
その時、
「君が人妻であろうと、俺には関係ないよ」
と能天気に言い放つ森岡の声が聞こえた。

  そういうわけで亜矢子は、生理痛で会社を休んだ今日も、何か良からぬことがあるに違いないと戦々恐々としていたが、しかし予想に反して、夕方までは何事も起こらなかった。
午後五時過ぎになると、いくらか腹痛が治まったこともあり、ぬれ煎餅を頬張りながら、リモコンを手にして、チャンネルを適当に変えながら、ソファに寛ぎ、テレビの画面に見入っていた。
その時、滅多に見ることのない大相撲中継をぼんやりと眺めていると、向かって左側の、取り組みに勝った東方の力士が、行司から懸賞金を受け取っている姿が映し出された。
亜矢子は思わずリモコンから手を離し、目を真ん丸にひん剥いて愕然とした。
亜矢子が関心を示したのは取り組みの勝敗などではなく、その時映った力士の背後の客席だったのだ。
「ちょっと、もう一度映してよ」
ぬれ煎餅をくわえた口から洩れたその独り言は、傍らで誰かが聞いていたとしても、恐らく、何を言っているかわからなかっただろう。
次の取り組みが始まった。
右側の、西方の力士が小手投げで勝った。
「そうじゃなくて左。左だってば」
その次も西方の関脇がうっちゃりで勝った。
しかし、その次の取り組みでは、東方の小結が勝った。
力士が行司から差し出された懸賞金を仰々しく受け取ろうとしたその瞬間、亜矢子はテレビにかじり付いて、その背後の客席を凝視した。
そこに夫の徹がいた。
隣に座っている見知らぬ女と、楽しげに談笑している。
亜矢子の口からぬれ煎餅がぽとりと落ちた。
「・・・あの人・・・どうしてあんなところに・・・」
三十五歳の夫の徹よりも、遥かに若く見える女は二十代前半だろうか。馴れ馴れしく夫の腕に触れたりするなど、その仲睦まじい二人の姿を見て、亜矢子は体中が震えてくるのを感じた。
今日は平日なので、通常であれば午後八時まで、百貨店内にある眼鏡屋の店長として勤務しているはずだ。
亜矢子は、あの眼鏡店を訪れて、初めて夫と出会った日のことを唐突に思い出していた。
「どうです?納まり具合はいかがですか?」
亜矢子が選んだ濃緑のフレームを、彼女の顔に合わせながら、その際左耳に触れたあの温かい指の感触に胸が高鳴った。
そして出来上がった眼鏡の掛け心地やレンズの見え具合などの最終的なチェックをした際、新しいレンズの向こう側にはっきりと見えた、にこやかな夫の顔が忘れられない。
「いかがです?」
しかしいつの間にか、夫の向かい側には、国技館で一緒に相撲を見ているあの女が座っていた。
「ええ、よく見えます。ところで、今夜、一緒に相撲観戦に行きませんか?」
ここで亜矢子は妄想を断ち切るようにして激しく首を振った。
いやいや、若い女が相撲を観に行こうということもなかろうが、いずれにせよあの女は、夫の店で、あの黒縁の眼鏡を購入したに違いないと思った。
徹は、亜矢子が相撲には全く興味がないことを知っているし、そもそも通常ならば今頃は仕事をしていて、観ることなど出来ない。
東方の力士が勝つ度に映し出される夫と若い女の姿を、今はもうコンタクトに代えている亜矢子の目がしっかりと捉えていた。
今日、徹が相撲観戦に行くという話は一切聞いていない。
それに、肩を寄せ合って語り合う二人の姿はまるで恋人同士のようだった。
まさか今頃、妻の亜矢子が、生理痛で会社を欠勤し、ぬれ煎餅を頬張りながら相撲中継を観ているなどと、夢にも思っていないに違いない。
生理痛で会社を休むと、やはりろくなことがなかった。
亜矢子は、頭の中で、目まぐるしく、さてどうしたものかと、徐々に策略を練り始めていた。

  徹は、いつもよりもやや遅い、午後九時頃に帰宅した。
「いやあ参ったよ。出来上がったばかりの眼鏡に傷があったとかで、クレームを言ってきた客に振り回されちゃってね」
その夫の言葉を聞いて、亜矢子の不審が確信に変わった。
しかし、そんな動揺など億尾にも出さず、彼女はいたって普段と変わらぬ風を装い、夫の上着を脱がせてあげながら、
「嫌よねそういうの。私の会社でもよくあるのよ。家具に傷が付いてるだのの苦情の電話が」
と夫の愚痴に賛同した。
「君は君で、色々苦労してるんだなあ。ところで、今夜の晩飯は何だい?ん?いい匂いがするね」
寝間着に着替えた徹は、鼻をクンクンさせながら、居間のソファにどっかりと腰を落ち着かせた。
目の前のテレビには、スポーツ・ニュースが流れていた。
徹は二度ばかり咳をすると、リモコンを手に、別の番組にチャンネルを変えた。
「あら、どうして変えちゃうの?」
亜矢子が、料理を載せた皿を手に、キッチンからやって来ると、すぐさまスポーツ・ニュースにチャンネルを戻した。
すかさず徹が、またリモコンのスイッチを押す。
「今日はどうしたのよ。いつもスポーツ・ニュース見てるじゃない」
「いや・・・今夜は映画が観たい気分でね。そういう時ってあるだろう」
しかし、CMが始まった途端、亜矢子は再びスポーツ・ニュースに変えた。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。チャンネルを変えてる間に映画が始まっちゃうじゃないか」
「ねえ見て。これから相撲の結果が始まるわよ」
「知ってるからいいんだ」
「え?知ってるの?」
「お客さんから聞いたからもういいんだよ。リモコン頂戴」
「いいでしょう。この私が珍しく見ようって言ってるんだから」
「そうだ!思い出した!ねえ亜矢子。電話帳持ってきてくれ。大至急」
しかし、亜矢子にその気がないことを見て取った徹は、立ち上がって、何気にこっそりと主電源を切りながらテレビの前を通過して、電話台の下から電話帳を引っ張り出した。
「やだ、ちょっと。テレビ消したでしょう」
「僕が?そんな馬鹿な。多分そこを通った時、脚に触れたか何かしたんだろう」
徹がなぜ電話帳を引っ張り出したのか、恐らく苦肉の策であったに違いないが、その行動が偶然にも、亜矢子をうろたえさせる結果となった。
「ねえ亜矢子。この電話帳、『こ』の項目の大半がページごと切り取られているんだけど、何か心当たりあるかい?」
徹が、空の一点を見つめながら、こ、こ、と口にして、頭に「こ」の付く職種を必死に思い出そうとしているのを見た亜矢子は、目次を見れば済むものをと思って笑い出しそうになり、その反面、ほっと胸を撫で下ろしてもいた。
「さあ、何かしら。私は知らないわ」
「コンタクトレンズかなあ。それにしたって、わざわざページを破ることもなかろうし」
「それより、どうして電話帳なんか引っ張り出したの?」
亜矢子は、やや形勢を逆転した。
「えっ。ああ、これね。ほら、以前から、車を買い換えたいって言ってるだろう。それで、色々と調べたいと思ったんだ」
と苦し紛れの言い訳を口にしつつ、ふと壁掛時計に目をやった。
相撲の結果を伝えるニュースは、もうとっくに終わっているはずだった。
「別に今すぐじゃなくてもいいや。じゃあ、一緒にスポーツ・ニュースでも見ようか」

  亜矢子が、電話帳の「こ」の項目のあるページを破ったのには深い訳があった。
次の日も生理痛が酷く、会社を休んだ亜矢子は、午前中に、腹痛と闘いながら、渋谷の道玄坂にある興信所を訪れた。
いまだかつて興信所など訪れたこともなかったが、思い立ったら行動せずにはいられない亜矢子は、とりあえず、電話帳で大々的な広告を出していて目に付いた興信所へ行ってみようと思い立った。
どの興信所も似たようなものに感じられて、大いに迷ったが、結局彼女が選んだのは、創業八十年と銘打っていた、老舗中の老舗の探偵事務所だった。
応接室で待っていた亜矢子の目の前に現れたのは、二十代半ばと思われる、若い女だった。
亜矢子は拍子抜けしたが、話している内に、矢野光子と名乗ったその調査員は、なかなか頭の切れる、常識豊かな女性だということがわかってきて、見下し気味になりそうだった自分を恥じた。
興信所といえば、どこか胡散臭い、陰気なイメージが先行するが、ここは全くそんなことはなかった。
入り口に受付嬢を配し、案内されたその先は、広々とした、綺麗なオフィスで、その上調査員がこの黒いスーツに身を包んだ若い女とくる。しかも、オフィスのBGMはなぜかボサノヴァだった。
「テレビでご主人をご覧になられたということですが」
と矢野という若い女の調査員は言った。
「その他に、証拠となるようなものはありますか?」
「いいえ、まだ何も」
「潔白である可能性も充分考えられるわけですよね」
「ええ。でも私にはわかるんです。テレビの画面を通してであろうと何であろうと、この目でしかと見たんですから」
「では、ご主人の浮気調査を、正式にご依頼されるということで、宜しいですね?」
「相手が何処の誰なのか。とにかく徹底して調べていただきたいんです」
「お任せ下さい。また調査の段階で、奥様に多少なりともご協力していただくこともあるかもしれません」
「どうぞ、何でも遠慮なく仰って下さい。ところで、費用は如何ほどでしょうか」
「前金で五万円を頂戴致します。その他は成功報酬として、全ての調査が終了次第、更に五万円をお支払いしていただくことになると思いますが、経費がかさんだ場合、追加でご請求させていただくこともあります。ご了承下さい」
亜矢子は、へそくりしていた金を財布の中から抜き出して、前金を支払った。
  その後、自宅に戻った亜矢子は、こうなったら、更なる証拠を掴んでやれと思い、徹の書斎に入り、隅から隅まで、しらみ潰しに探し回った。
すると、オーク材のデスクの、三段目の引き出しの中から、ふと目に留まったものがあった。
それは白い封筒で、表には何も書かれていなかったがやけに分厚い。開いて中を覗くと、そこには、プロ野球とサッカーの試合のチケットと割引券が二枚ずつごっそりと入っており、最も近い日付のものは明日だった。
「巨人対阪神戦・・・?聞いてないわ」
亜矢子はチケットの座席番号をメモすると、早速、探偵事務所に電話を入れた。
担当調査員の矢野が電話に出ると、状況を説明し、明日、東京ドームで張り込みたいと申し出た。
そこで亜矢子は、今夜何気なく夫に探りを入れてみて、間違いなさそうであれば、明日の午前九時に再度連絡し、打ち合わせをしに事務所へ行く段取りをつけた。
  徹は八時過ぎに帰宅した。
そういえばここ最近、いいこと尽くしの毎日だと言わんばかりの、妙に浮き足立った感じなのは、女がいたせいだったのか。
亜矢子はそう思うと、この場ですぐにでも書斎に引っ張り込んであのチケットで横面をはたいてやりたい気分になったが、表向きはいつもと変わらぬ調子で夫を迎え入れた。
「なあ亜矢子。明日、かなり遅くなるよ」
ネクタイを外しながら徹がこう言った。
「わかってるわ。女とナイターを観に行くんでしょう?」
とは言わず、
「そうなの?飲み会?」
とすっ呆けた。
「えっ?・・・ああ、そうなんだけどね。たまにはね。こう、みんなで、ワイワイと」
恐らく、徹は何か別の理由をあらかじめ考えていたのだろう。亜矢子はそれを察した。
「で、帰りは何時頃?」
「さあなあ・・・。かなり遅くなるから、先に寝ててくれ」

  次の日も生理痛があったが、歩けないほどではなかった。それでも今日はどうしても、会社を休まなければならない。
三日連続で、しかも夫にも内緒で休んだことなどこれまでになかったが、社内では、特に女子社員の間では、亜矢子の重度の生理痛は有名だったので、とやかく言われることはないだろう。但し、明日は絶対出勤しなければ、と亜矢子は思った。
  朝から道玄坂の探偵事務所を訪れ、事前に調査員の矢野と打ち合わせをした。
「東京ドームの巨人阪神戦は、午後六時からですね。私たちは七時頃に行きましょうか」
「中には入れるんですか?内野席のようですよ」
「大丈夫です。任せておいて下さい。それと、奥様。何があっても、感情に振り回されるようなことがあってはいけませんよ。耐え忍んで下さいね」
「ええ大丈夫です。ただ」
と少し間を置いた後、
「生理中の女は何をするかわかりませんからね」
と冗談混じりに言い放った。