化 身(1)

 

  宝暦八年(一七五八年)の頃のこと。出羽国北部(現在の秋田県)に、佐吉という熊猟師が住んでいた。彼には病気で寝たきりの妻と、チヨという名の若い娘がいた。
  白神山地の、奥深い森林で、里の雪が解ける頃、日々獲物である熊を追って歩き回っていた佐吉は、万多耆や又鬼とも呼ばれ、これは今で言うところのマタギである。
佐吉がマタギであるが故に、通常の狩猟者と違うのは、山岳宗教とその戒律を徹底して守っていたことであった。山は山神様が支配するところで、熊はその山神様からの授かり物として敬うという、自然崇拝の思想と、狩人作法を守って生きてきた、特殊な伝統を持つ狩人であった。
また佐吉は、集団で狩猟をするマタギの、シカリと呼ばれる頭領でもあった。
 さて、狩りに出かける前日、佐吉は、数人のマタギを引き連れ、マタギの守り神である、山神様を祭る神社に、参拝のため立ち寄った。
山神様は、ひじょうに醜い女の神様という言い伝えがあり、嫉妬深いことでも知られているので、山に女を立ち入らせると怒るため、神聖な山は女人禁制であった。
やがて豊猟と無事を祈った後、神酒を佐吉から順番に飲み、その後それを持って、佐吉の家で酒宴を開いた。これもマタギの慣習であった。
ところがその夜のことである。長さ三尺ほどの一匹の蛇が何処からともなくやって来て、足元で這い回っているのを、なかなか寝付けないでいた佐吉が気付いて、起き上がった。
すると蛇は、鎌首をもたげ、ぱっくりと開いた口を吊り上げたそこから、細長い舌を出すと、シャーッという威嚇するような声を発し、今にも飛び掛らんとする気配であった。
佐吉はそれを見るなり、傍らにあった槍を手にして脅かすと、蛇は佐吉を睨みつけ、退散した。
佐吉はその後、別段気に掛けることもなく、再び横になると、そのまま眠りに入った。
  次の日、佐吉たちは狩猟に出掛けた。布を頭巾にして被り、その上から防寒の、アマブタと言われる笠を被って、防寒用にキガワと言われるカモシカの一枚皮をまとい、マタギバカマという麻の単衣の山袴を穿き、その下にはハバキと言われる脛当てと、藁で作ったツマゴと呼ばれるものを履いて、武器は火縄銃であった。
そうして佐吉たちは、奥深く、険しい、積雪残る山道を歩いた。
  どの位の時間が経過したであろうか。やや日も落ちかけた頃、空洞になった樹木の上に、タカスと呼ばれる、熊の出入り口があるのを見つけた佐吉は、探り穴を掘って、そこから棒を押し入れた。
その直後、熊がタカスから出てきて、見張っていた佐吉はそれを火縄銃で撃った。
ところが熊はしぶとく、なかなか死なずに、よろけながらも佐吉に向かってきたので、他のマタギが槍で熊に一撃を加えた。そこで熊は息絶えた。
熊を仕留めたマタギは、「ショウブ」と合図し、他のマタギたちに知らせると、全員がそこに集まり、被りを取り、残り玉を全て外して、銃を山に向けて立て、捕獲を祝った。熊を縄で縛り上げ、それをマタギたちは引っ張りながら、山を降り、一旦狩り小屋に戻った。
ところが、先頭を歩いていた佐吉が、小屋に入ろうとした直前、一匹の蛇が、残雪のある草むらを、するすると動いているのが見えた。
蛇はそのまま小屋のところまで来たかと思うと、その様子を見ている佐吉の背後の、一本の細い樹木をくねくねと登り始めた。
すると蛇は、易々とそこを登り切り、枝に絡みつくと、先の割れた長い舌を小刻みに出し入れしながら、小屋の近くまで忍び寄り、中の様子を窺っているように見えた。
ところが、それを眺めていた佐吉の目の前で、蛇は突然、口を開け、甲高い、威嚇するような声を発したかと思うと、枝から小屋の屋根に飛び移り、するすると、その中に入って行ってしまった。
何事かと思い小屋に入ると、そこには佐吉の娘のチヨがいて、そのか細い首筋に、蛇が噛み付いていた。
佐吉は急いで剥ぎ取ると、地面に落ちた蛇目がけて、槍を思いっきり突き刺した。
蛇は死ぬ寸前、目を開いて、佐吉を、しばらく睨んでいた。その目には明らかに、怒りの色を宿していて、佐吉は思わず後退りしてしまった。
「こりゃあいかん。お前、なぜここに来たんじゃ」
佐吉は、十八歳の愛娘にこう尋ねながらも、うろたえずにはいられなかった。
「あれほど山に立ち入ってはいかんと言ったのを忘れたか」
「母ちゃんが死んだ」
チヨは佐吉に抱きついて、マタギたちが見ている前で、大声で泣き出した。
佐吉はチヨの顔をまじまじと見つめた。
「早く父ちゃんに知らせたくて・・・母ちゃんが死んだんだ」
病気で床に伏したままであった佐吉の妻が、昨日の夜に息を引き取ったという。ところが佐吉は、込み上げてくる悲しみに身もよじれんばかりであったが、一方で、頭領のシカリでありながら、戒律の破約をしてしまったことを悔やみ、その罪の深さを思うと、ますますチヨを責め立てたい衝動に駆られた。
しかし、その場は踏み止まって、やがて妻を葬送し、その悲嘆が治まってきた頃合を見計らって、マタギの伝統を汚した、チヨの自分勝手な行動を非難し、シカリの娘であることの重責を、切々と訴えたのである。
「狩りの前日の夜と、お前に噛み付いたあん時の蛇は、きっと山神様に違いねえ」
佐吉はチヨに言った。
「山神様は女人が山に入ることを許されんのじゃ。なのにお前はそれを破った。そしてわしは、あの蛇を殺してしまった。わしはもうマタギを辞めんといかん」
しかしチヨには、母親の死を知らせたいばかりに山へ行ったことが、軽はずみだったとはとても思えず、父親の非難を素直に受け入れられることなど出来なかったのである。
  さて、佐吉の妻が死んで一年の月日が経った頃のことである。
チヨは、隣村に住む農家の倅と結婚した。それから更に半年後に子供を宿し、やがて立派な女の子を産んだが、大変な難産であったため、チヨはその日以来、体がすっかり衰弱し、殆ど寝たきりの状態であった。
マタギを引退し、農業に専念していた佐吉は、その女の子に、トミという名前を付けた。
ところがトミが二歳の頃、チヨがとうとう死んでしまった。
「これはきっと、山神様のお怒りに違いあるまい」
と、かつての仲間だった猟師たちは、口を揃えて噂し合った。理由が何であれ、マタギの伝統を軽んじたことは許されるはずがなかった。
そしてその罪障が、明らかなかたちとなって現れたことで、村人たちは恐れをなし、佐吉に近付こうとはしなくなった。
唯一の理解者であったチヨの夫だけが、佐吉を哀れんでいた。
  が、ある年、トミの体に異変が起こった。体の、腕や脚に至るまで、堅く、青々とした鱗が、びっしりと現れ始めたのである。
チヨの夫は、娘の体の異変に気付くと、その呪いの発端は佐吉にあると責め、絶縁し、そればかりか、トミを彼に押し付けて、隣村に帰ってしまったのである。
その噂はたちまち広がった。
佐吉が山神様の化身であった蛇を殺したその報いが、とうとうトミの体にまで及んでしまったことが、村中に知れ渡ったのである。
その年から十歳になるまで、幼いトミは、母屋から一歩も外に出ず、日の光を浴びることなく育った。
佐吉は孫娘を大変憐れに思い、名医に診てもらおうと決心し、とうとう出羽国を出発して、江戸へと向かったのである。