奪命の民(2) 朦朧とした意識のまま目を覚ました浩介は、なぜ自分がこんな生い茂った草の中に倒れているのか、全く思い出せずにいた。 何とか余力を振り絞って立ち上がったものの、頭が朦朧としていて足元がおぼつかない。 周囲は真っ暗で、月の光で何とか判別がつく程度だった。 そこで、おぼろげながらも、これまでに起こった出来事を浩介は少しずつ思い出していた。 そうだ、俺は典子を殺したんだ。 思わず手のひらを広げて、まじまじとそれを見下ろした。 俺はこの手で典子を殺したんだ。 そして・・・そう、沼に沈めた。そこまでは憶えている。しかしその後・・・。 はっと我に返ったかのように浩介は、上を見上げた。道路を走っている時、人影のようなものが横切ったのを見て、急いでハンドルを切ったものの、車は道路を飛び越えてしまったんだ。 それからどうなった?車は何処だ? 浩介は、体の何処にも怪我らしい箇所がないことに安堵した反面、この事故によって、典子を殺したことが露見してしまったら大変なことになると焦った。 腰の高さまで生い茂っている草を、両手で掻き分けながら歩いて車を探した。すると、そこから十メートル歩いた先に、黒い物体が草に紛れて顔を出しているのが目に入った。近くまで走って行くと、やはりそれは浩介の車で、何かにぶつかったのだろう、ボンネットが無残にも押し潰されており、運転席のドアも何かの衝撃によって吹き飛ばされていた。それは、そこからそう遠くはない場所に転がっていた。 浩介はその場に立ち竦んだまま、呆然と車を見つめていた。 これは予想もしていないことだった。何とか車を隠すなりして、明日までには典子のアパートに戻らなければいけない。しかし、どうすればいい。浩介は念のためにエンジンを掛けてみたが、やはり無駄であった。 誰の目にも付かないところまで引っ張っていくか・・・いや、それは無理というものだ。この場所で、車が見えないように、何とか隠す手立てはないものか・・・。 一陣の風が、浩介の頬をかすめて、草の擦れる音が静寂を破った。 それと同時に、背後に人の気配がして、浩介は咄嗟に身を隠そうと屈み込んだ。 しかし、それが何の意味もなさないことは、近寄って来たその何者かが、話しかけてきたことで明白になった。 浩介はゆっくりと腰を浮かせて、やがて立ち上がると、顔は見えないが、その、人の姿をかたちどったような影が、徐々に近寄ってくるのを見ていた。 やがてニ、三メートルまで近付いてくると、それがやや背の丸まった、老人であることに気付いた。顔に深く刻まれた皺の多くが、手に取るようにわかるほどに、老人はのんびりとした歩調で近付いて来た。 「・・・どうしたんじゃ?」 老人は、こんな時刻に、こんな場所にいる浩介の挙動を怪しむというよりも、道に迷ったか何かしたとでも思っているのだろうか、その言葉の端々には温厚そうな響きがあった。東北の田舎町に住む人間特有の匂いがしたが、それよりも老人が肌着一枚なのには驚いた。 浩介は、何と答えるべきかと考えていたが、ここまできたら、利用できる奴はいくらでも利用してやれと思い、思慮深そうな顔をたたえた老人に向かって口を開いた。 「この通り、事故に遭いまして・・・。これは父親から借りていた車なんです。それだけではなく、他にも色々と事情がある手前、この事故を表沙汰にしたくないんですよ。今夜中になんとか、この車を隠すことが出来れば、あとは歩いて市街まで出て、それからのことはその時考えようと思っています」 父親から借りていたというのは勿論嘘で、これは自分の車なのだが、こうやって話を濁しておいて、さてその後老人が何と言ってくるか、それによって幾通りもの答えを用意していたが、老人は浩介の言葉を聞くや否や、 「まあついて来なされ。今夜はもう遅い。家へ泊めてあげよう」 と言って、先に歩き出してしまった。 虚を衝かれたような思いだったが、それでもいい手応えを感じてもいた。 浩介は老人に言われた通り、生い茂る草を掻き分けながら、その深い森の中へと進んで行った。 そこは密林と言ってもいいほどで、月明かりを頼りにしているだけの闇夜の中で、雑木などの樹木以外何も見当たらないような心細い道を、老人の後ろについて歩く浩介は、心許ない心境だった。 しばらく進むと、川のせせらぎの音が耳に入ってきた。あれは何の川かと尋ねると、老人は長瀬川だと答えた。 それを聞いて、浩介はおおよその位置を知ることが出来たが、どのくらい歩いていただろうか、長瀬川に架かる橋を渡って、緩やかに曲がり始めた未舗装の道を歩き出してから、どの方角を目指して歩いているのか、今どの辺りにいるのかが、全くわからなくなってしまった。 それも無理からぬことだった。事前にこの磐梯山周辺の地理を調べてきたとはいえ、実際に足を踏み入れるのとはわけが違うし、そもそも典子をあの沼に沈めるための、そこまでの道のりを重点的に頭に入れただけだったので、浩介にとっては、もはや未開の地同然であった。 「どうじゃ、見えるじゃろ」 老人が振り返り様浩介に言った。 「大磐梯、赤埴(あかはに)山、小磐梯の、三つの峯が。あれがこう、重なり合っているんじゃ」 浩介は、老人が指差す方角を見た。鬱蒼とした森は、山麓まで続いている。そしてその山容は、どこか富士山に似ていた。 昼間にこの景観を目にしていたならば、また違った印象を抱いただろう。しかしこの夜更けに、裏磐梯から見るその山容は、壮観というよりも、山それ自体が迫ってくるような感じで、どうも不気味にさえ感じられた。 それよりも、老人の言った「小磐梯」という名称を耳にして、それがどうも引っ掛かって仕方がなかった。というのも、浩介は、ここ一帯の地理を調べていたにも関わらず、全く聞き覚えのない山だったからである。 老人は物憂げな表情で山を見つめていた。すると、さっきまでの、実直そうな声音とは打って変わった強い口調で、 「じゃがな。山は時に人を殺すんじゃよ」 と言った。 浩介はまじまじと老人を見た。 しかし老人はそれ以上何も言わず、山に向かって歩を進め始めた。つまり、山麓まで続く、鬱蒼とした森に向かって歩き出した。 浩介はここで躊躇せずにはいられなかった。 あの、森の中に住んでいるというのだろうか?もしあれが磐梯山ならば、ここら一帯には湖があると思うのだが、それらが見えないのはどういうわけか。それとも俺が、ちょっとかじった程度で、わかったようなつもりでいるだけなのか。記憶が曖昧なだけなのか。 老人に導かれるように、ひっそりと静まり返った森の中を進むと、道はやがて二手に分かれた。 老人はその道を右に進んだ。 「もうすぐじゃよ」 老人の声は、再び、温厚そうな、北国の田舎の老人の響きに変わっていた。 しばらく行くと、再び橋に差し掛かり、今度は長瀬川を右岸に渡った。 すると間もなく、ひっそりと佇む、古めかしい民家が、十軒ほど隣り合うようにして建っているのが目に入った。 「あれが細野部落じゃよ。わしが住んでるところじゃ」 老人はにこりと満面に笑みをたたえると、労わるような眼差しを向けた。 浩介は色々と老人から聞き出したい衝動に駆られたが、今はただ老人の出方次第だと自分に言い聞かせ、何も言わずにおこうと決めた。 老人はその中の、ちょうど一番奥の民家の戸を開けて、お客さんじゃ、と家の中に向かって言った。すると中から老婆と娘らしき中年の女が出て来た。快く迎えてくれるはずはないと、浩介は一瞬後退りしそうになったが、それを察したかのように、もんぺを穿き、頭に手拭を巻いた老婆が、顔をしわくちゃにして笑いかけ、どうぞ入りなされ、と言って、土間から手招きをした。 浩介は靴を脱ぎ、土間に上がると、囲炉裏のある板敷の、恐ろしく広い部屋に通された。ざっと見渡しても、三十畳以上はあると思われた。その奥には座敷があるようで、その向こうには縁側と、ちょっとした庭が見えた。老年夫婦の娘は、浩介を横目に見ながら、縁側まで歩いて、やがてそこに座り込んだ。浩介はひと目でその娘に嫌悪感を抱いた。四十はとうに超えているであろう、その女の、全く化粧をしていない顔は浅黒く、目付きはどんよりとしていながら妙に落ち着きがない。洗いざらしたままのような長い髪の毛には艶がなく、体は病的といっていいほど痩せ細っている。 浩介は邪険の色を隠そうともせずに、女を見返しながら、何の根拠もないことではあるが、あの道路に突然飛び出して来た人影は、もしかすると、こいつではなかったか、と思った。 その時、ふと老人が話しかけていることに気付いた。 「腹は空いておらんかね?」 浩介は、腰を下ろした老人を見るなり、大丈夫です、と答えた。 それより、あの車を何とかしなければならない。 今夜は老人に甘えるとして、その先のことは何とか考えて対処するしかなさそうだ。 浩介はこう結論付けて、鬱積していた疑問を、やがて老人に投げかけてみた。 「ところで、まだわからないんですが・・・」 「わからないとは、何じゃね?」 「つまり・・・まず、俺はこの付近に来るのは今日が初めてなんですが、それにしても、このような部落があるとは、全く知らなかったんです。それと、磐梯の北麓には、つまり裏磐梯には、沢山湖がありますよね。それも見えませんでしたし・・・。あと、小磐梯という山も聞いたことがありません」 「ここに来るのが初めてなら無理もなかろう。わしらのような部落は他にもある。ここから一里離れた場所、磐梯から更に近い場所には雄子沢部落があるんじゃよ。そこから磐梯の裾を廻って一里の場所には秋元部落がある」 その時、老婆が茶を煎れて、浩介に差し出した。 全ての疑問に答えたわけではなかったが、浩介は、もはやそんなことはどうでもいいと諦めて、茶をすすった。 全身に温かいものが浸透して心地良かった。それもそのはずである。この家は底冷えするほど寒かった。暖房器具というものが一切ない。それにも関わらず老人は肌着だけで、老婆も娘も薄着で素足である。 「今夜はここに泊まっておいきなさい。座敷に寝ても構いませんよ」 老婆がそう言いながら、再び茶を注いだ。 浩介が座敷に布団を敷いて横になると、家人は皆板敷きの大部屋で眠ったようだった。 今夜はこのまま眠って、あとは明日考えればいい。ただあの車が発見される前に、どうにかしなければならない。 浩介は布団の中で寝返りを打ちながらそう考えて、ズボンのポケットをまさぐり、携帯電話を取り出した。そしてアラームをセットし、再びポケットに入れようとしたが、それが圏外になっていることに気付いた。 なるほど、携帯電話も繋がらない僻地なわけか。そういえばこの家にはテレビも冷蔵庫もなかった。一体どうやって生活しているんだ。 浩介は目を閉じて、やがて訪れたように思われた睡魔が、突然遠くの方から聞こえてきた唸り声によって吹き飛ばされてしまい、思わず布団から起き上がった。 一体今のは何の声だったのかと不審に思っていると、縁側の下で、何かガサゴソと、動いている気配が感じられ、浩介は警戒心を強めた。上半身を起こした状態のまま、しばらく布団の中で身じろぎもせず、ただ黙って耳を澄ませていたが、今度は大部屋の向こうの、入り口の方で、地面を踏みしめるような音が聞こえてきた。かと思うと、先程耳にした、人間のものとも動物のものともわからないような奇妙な唸り声が、また聞こえてきた。 浩介はとうとう布団から這い出て立ち上がり、座敷から大部屋に入って、もしまだ起きているようであれば、声をかけてみようと思い、横になっている老人に近付いた。 老人は目を開けていた。 ところが、苦しそうにもがき、唸っているではないか。 「・・・熱い・・・熱い・・・水を・・・水を」 この声は老人のものだったのか・・・。いや、そんなはずはない。 浩介が驚いて、布団の上でのた打ち回る老人を瞬きもせずに見ていると、同じような唸り声が、家の四方八方から、延々と聞こえ始めて、それは止むことがないように思われた。 老人は胸を掻き毟るようにしていたが、今度は老婆が、そしてその隣にいた娘までもが、体を強張らせ、苦しそうにもがき始め、両手足を振り回し始めた。 浩介は愕然とした。これは一体何が起こったというのだ? すると、老人は浩介の存在に気付くや否や立ち上がると、その顔は、見る見るうちにただれていった。 老人は浩介に襲い掛かった。 「お前だけ生き残ろうたってそうはいかん」 浩介は驚きの余り、老人の動きを制することも出来ずにいたが、我に返ってその体を投げ飛ばすと、玄関に向かって走って、やがて戸を開け放った。 そこには、数え切れない程の村人が集まっていた。異様に目を光らせて、真っ赤に焼けただれたような顔と手足を震わせながら、一体何を求めているというのか、彼らは浩介の姿を捉えるや否や、突然襲ってきた。 浩介は再び家の中に逃げたが、今度は老婆と、その娘が立ちはだかり、行く手を阻もうとしたが、浩介は二人を突き飛ばすと、座敷から裏庭に飛び出した。 その時、縁側の下に隠れていた数人の村人が襲い掛かってきた。 そこに、あの家主の老人も浩介に飛び掛ってきて、逃がせまいとした。 そうしている間にも、入り口から土間に続々と村人が上がり込んで来た。 それを悟った浩介は、ここで捕まったらもう後がないと思い、その場で揉み合いになっていた村人たちを次々に殴り倒して、庭を飛び越え森の中へと一目散に逃げた。 ところが、村人たちは執拗に追ってきた。後ろを何度も振り返っている内に、浩介は石につまずいて前のめりに倒れて、胸を打った。 「おーい!おーい!」 何処からともなく叫び声が聞こえてきた。 浩介は、その、声のする方に向かって走り出したが、村人たちも狂ったようになってその後を追って来る。 「おーい!おーい!」 「ここだ!助けてくれ!」 浩介がそう叫んだのと同時に、すっと彼の手を引っ張る者がいた。しかしそれとは別に、彼の足にしがみつく者がいた。浩介は振り返った。そこにいたのは、血だらけの典子だった。 浩介は、足に絡みつく典子と共に、空中に引っ張られていくような感覚に陥ったが、ふっ、と一瞬、意識が遠のいていくようになった後、再び意識を覚醒させたその時、見知らぬ男が、浩介の胸に手を押し当てていた。 辺りをよく見回すと、そこはどうやら桧原湖の湖畔で、浩介は数人の男たちの手によって、湖のそばから引っ張られて来たようだった。 タオルを数枚かけられた、全身ずぶ濡れの体を横たえて、一体何がどうなったのか、判然としないまま、浩介は息も荒く、青空を見上げた。 「車にはあんた一人だったか?」 浩介は、何のことやらさっぱりわからなかった。 「車・・・。いや・・・俺は車など・・・」 「今車が引き上げられているんだ。あんたのだろう?」 男は浩介にこう尋ねたが、全く合点のいかない話だった。 そこで浩介は、まだぼんやりとした意識のまま、男に色々と尋ねようとした。 すると、引き上げた車の辺りにいた男たちが、何やら騒ぎ出して、浩介に話しかけていた男も、一旦その場を離れて行った。 落ち着け、落ち着くんだ。 浩介は自分に言い聞かせたが、到底それは無理な話だった。体がだるく、起き上がることすらできなさそうだ。 誰か教えてくれ。俺の身に一体何があったというんだ。 目を瞑って、その場でじっとしていると、さきほどの男が戻ってきた。 「俺は・・・湖に落ちたのか?」 浩介は尋ねた。 男は答えた。 「そうだ。だがあんたは自力で脱出して、湖の傍らで倒れていた」 「そうだったのか・・・。てっきり俺は、あの道から飛び出して・・・草むらの上に落ちたものだと・・・」 男はその言葉を聞いていないようだった。 「ところで、ここから少し離れたところに五色沼というところがあってな・・・」 男の口調が少し険しくなった。 「その沼からさっき女の死体が上がった・・・お前がやったのか?今車から・・・血痕の付いたナイフと、ゴミ袋の入った衣類が見つかったんだがな」 浩介は空を見上げたまま、何も言わなかった。 しかし一つだけ質問した。 「・・・細野部落っていうのは何処にあるんだ・・・?」 男は首を傾げながらも答えた。 「細野部落だと?そんなところはとっくにない。明治ニ十一年に、磐梯山が噴火して湖の底に消えたんだ。まさに今、あんたの車が引き上げられた湖だ」 浩介はそこで小さく頷いただけで、目を瞑り、後はもう何も言わなかった。 男はその場から離れると、現場に到着した刑事の許へ行った。 「どうだ?」 刑事が地元の男に尋ねた。 「さあ。俺からは何とも。あとは刑事さん、あんたらの仕事ですんで」 と言い残して、そそくさと男は去った。 しかし男は、今もこの土地で、落ち着きなく彷徨っているかつての村人たちを、この機会に再び追悼しようと、その帰り道に裏磐梯にある「噴火百年忌供養の碑」に立ち寄って、その前で手を合わせた。 これまで何度も、部落の人間に誘(いざな)われるようにして、湖に入っていった人間を何人も知っている。 あの殺人犯もきっとそうなのだろう。男は手を合わせて、ただひたすら拝み続けた。 明治二十一年七月十五日、磐梯山の噴火によって、小磐梯山が爆発し、崩壊してなくなってしまった。そしてこの、大規模な岩屑流で、麓の秋元、細野、雄子沢の三村は全滅し、噴火によって生じた湖の底へと沈んだ。 亡くなった村人の多くは、遺体を掘り出すことも出来ないまま、今も地底深くに眠っているという。 戻る HOME |
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