奪命の民(1)

 

 神崎浩介が午後の早い時間に、車に乗って東京を離れ、東北道から磐越道を走り、会津若松インターチェンジを降りて国道121号線に入る頃には、午後六時を回っていて、辺りは既に暗かった。
浩介は喜多方に来たことなど一度もなかった。というよりも、福島県を訪れること自体、三十五年間の人生の中で初めてのことだ。
121号線を米沢方面に走って行くと、その途中で太平洋から日本海沿岸までを結ぶ459号線との交差点に差し掛かった。
そこを左折し、一キロ程走ると道は北上する。
喜多方市街は観光地らしい雰囲気を漂わせているが、思っていたよりも人も疎らで静かなものだった。
浩介は、左手に見えてきた工場らしき建物を確認すると、その脇道に入り、しばらく走った後、車を停めた。
しかしその後も浩介は、ハンドルを握ったまま、微動だにしなかった。これから起こり得る、あらゆる可能性を、こうして今一度考えてみると、とても冷静でいられるはずもない。
浩介は汗ばんだ手のひらをハンドルから離すと、シートにもたれ掛かって険しい表情になった。
やがてエンジンを止めると、ダッシュボードの中から、刃渡り三十センチのサバイバルナイフを取り出すと、それをジャンパーの内ポケットに収めて、表に出た。
秋から冬に移り変わろうとする時節なので、吐く息は煙のように白い、深々と冷える夜だった。
浩介は、ジャンパーのチャックを上げて襟を立て、ズボンのポケットに両手を忍ばせて、入り組んだ小道を歩きながら、注意深く辺りに視線を配っていた。
目的としていたアパートはすぐに見つかった。
「星雲荘」と書かれた、小さな表札のような物を入り口に掲げたその古いアパートは二階建で、浩介は咄嗟に建物の裏側に回りこんで上を見上げた。
三つの、ちょうど真ん中に当たる部屋には、煌々と明かりが点いていた。浩介はそれを確認すると、階段を上がって、その部屋の前に立ちはだかり、古めかしい木製のドアを三回ノックした。すると、部屋の蛍光灯の明かりを遮って、人影が玄関に近付いてくる様子が、ドア横の窓から確認することが出来た。
「どちら様ですか?」
典子は、恐々とした口調で訪問者に尋ねた。
「俺だ」
こう言った後、典子が押し黙って、その場に立ち竦んでいるのが手に取るようにわかった。
しばらくの間、典子は何も言わなかったが、威圧的な態度で執拗に迫ってくることは、浩介と五年も付き合ってきたその経験上、充分に考えられたので、どうしたものかと思いあぐねていた。
「典子。開けろ。話がある。ここを開けろ」
今夜ばかりは感情に押し流されて、隣近所に聞こえるような怒声を張り上げてはいけない、という冷静さを、浩介は失ってはいなかった。時折辺りに目をやりつつ、何度も典子の名を呼んでは、ドアを開けろと言った。
すると、中からドアの鍵を外す音が聞こえた。
その音を聞いて、浩介がドアを開けると、トレーナーにスウェットという寝間着姿の典子が、怯えたような面持ちでそこに立っていた。
背中まで垂れていた髪の毛を、肩に触れる程度の長さにまで短くしていることにも気付いた。
浩介は何も言葉をかけず、靴を脱ぐと上がり込んで、六畳間の部屋にどっかりと腰を下ろした。
それを目で追っていた典子も、ゆっくりとした足取りで部屋にやって来て、テーブルを挟んだ向かい側に、真新しい絨毯に視線を落としたまま座った。
「典子。お前、なぜ急にこんな辺鄙な所に引っ越したんだ?一方的に別れたいなどと言い出したかと思えば、俺の言うことも聞かずにそそくさと姿を消しやがった。どういうことだ?説明しろ」
その声は典子をますます萎縮させた。浩介は俯いたままの典子を凝視して、答えを待った。
「なぜ言えない?男が出来たなら出来たと言えばいい。俺が嫌いになったと言いたければ、そう言えばいいだろう」
典子はここで、ごめんさない、と小さく呟くと、視線を落としたまま話し始めた。
「浩介の言った通りなの・・・。前に、何回も言った通り、私はもう浩介とは付き合えない。そもそも、もう、好きじゃないの」
「俺の言った通り?」
浩介は眉間に皺を寄せて歯を喰いしばった。
「言った通りなんていう言い方は聞きたくないな。つまりお前、男が出来たんだろう?言えよ。男が出来たって言えよ」
「・・・ごめんなさい浩介。私には今、付き合ってる人がいて・・・」
「何処のどいつだ?どうやったら、こんな辺鄙な所に住んでる男と知り合えるんだ?」
「あの人も元々東京にいたの・・・。芳子の紹介で知り合ったのよ。それで・・・福島に転勤になったらしく、一緒に住まないかって言われたから・・・。ちょうど私も仕事を辞めたばかりだったし、それで一緒に喜多方に来たの」
脂汗が滲み出てくる額を拭いながら、浩介は怒りに打ち震える感情を抑えることで精一杯だった。
俺という恋人がありながら、俺の知らないところで、俺が毛嫌いしているあの芳子というじゃじゃ馬から男を紹介され、挙句の果てに付き合い始めたばかりか、俺に断りもなしに遠く遥々北国までやって来たというわけか。
浩介はジャンパーのチャックを下ろした。
「で、お前はもうその男と一緒に暮らしていくつもりなのか?俺とやり直す気持ちなど更々ないというわけか?」
典子は俯いたまま、しばらく黙り込んでいたが、それは明らかに、既に簡潔な答えが出ていながら、どう返事をしたものかと思い悩んでいるというだけで、浩介にとっては何の意味もない沈黙であることは明白だった。
そこで浩介は、答えを待たずに、典子に最後の質問をした。
「男は今夜何時ごろ帰ってくる?安心しろ、何もしやしない。俺はもう諦めた。ただせっかくここまで来たんだ、挨拶のひとつぐらいはさせてくれ。それが嫌なら顔を見るだけでいい」
典子はそれを聞くと、やや緊張の糸を緩めたような表情になった。
「・・・彼は今夜は出張で帰って来ないの。本当よ。明日の夜に帰ってくるわ」
「明日の夜か・・・」
浩介はこう呟くと、典子に微笑んで見せて、ジャンパーの内ポケットからサバイバルナイフを取り出した。
「じゃあ、その前にお前を処理しておかないとな」
典子が叫ぶ間もなく飛び掛った浩介は、ナイフを彼女の左胸に深く突き刺した。
声を出さないよう、左手で口を塞ぎ、その指の間から苦悶の声が洩れるのを聞いた後、更に一回、二回、三回と、立て続けに、胸元にナイフを振り下ろした。
その度に返り血を浴びる浩介の顔は憤怒の形相だった。
やがて典子は、目を開けたまま事切れたにも関わらず、それでも尚、体にナイフを突き刺す浩介の目的は、もはや殺すためというよりも、まるで人間の形をとどめないほどにズタズタにしてやろうという深い憎悪に、強く突き動かされているだけだった。
浩介は、三十回に渡って典子の体にナイフを突き刺した後、その場に座り込んで、改めて典子の死体に目をやった。
荒い息遣いのまま立ち上がると、まずタオルでナイフを拭い、それをジャンパーの内ポケットに仕舞った後、顔や衣服もタオルで拭った。そしてすぐに部屋を出て、車まで戻り、後部座席から新しい衣服と、紺色の寝袋、そしてゴミ袋を手に持って、典子のアパートに戻った。
まず、典子の死体を寝袋に入れた。そしてまだ血痕の残るジャンパーとズボンを脱ぐと、それを全てゴミ袋に入れ、新しい上着とズボンを身に付けて、まずは衣類の入ったゴミ袋を車まで持って行った。続けて寝袋に入れた典子を抱え、それを両手で抱えるようにして持ち運ぶと、やがてそれをトランクに投げ入れた。
そして車のエンジンをかけ、発車させると、国道459号線に入って、東の方角へと向かった。
途中、喜多方に来る際に通った121号線との交差点に差し掛かったが、そこでも曲がらず、ひたすら真っ直ぐ突き進み、車は喜多方市から磐梯山に向かった。
その辺りに来ると、周囲は水田地帯で長閑な風景が続く。
喜多方からの、この道のりに限っては、事前に調べていたので浩介にはよくわかっていた。
やがて北塩原村に入り、川沿いの道を緩やかに高原に向かって上って行く。
まだ心臓の鼓動が激しく胸を打ってはいたが、浩介は至って冷静だった。典子に会うまでの、怒りと緊張が混在していた妙な感情は消え失せて、むしろ爽快でさえあった。その心地良さに浸りながら、浩介は煙草に火を点けて、肌寒い風が入ってくるのもお構いなしに、窓を開けて煙を吐いた。
やがて山道は峠を越えた。峠の道を下れば、そこには森が迫った桧原湖を見ながらの湖畔道路が続く。その先に、五色沼がある。桧原湖の間にある湖畔の、静かな、それでいて落ち着かない雰囲気のある暗い森の中をしばらく走り、間もなく五色沼に辿り着いた。
磐梯山と、その北側に連なる吾妻連峰の間に広がるこの高原地帯は、磐梯高原、または裏磐梯とも呼ばれているらしい。だが浩介にとってそんなことはどうでも良かった。典子を、この沼の中に永遠に沈めてしまえばそれでいい。そしてその後、典子の部屋で、あの男が明日帰ってくるのを待って、それからどうするか・・・。
浩介は、ハイキングコースの終点らしき場所の見える道路に一旦車を停め、しばらく様子を窺った。
平日の、この遅い時間帯には、人影も全く見えない。反対側にあるレストランや土産物屋も閉まっていて、ひっそりとしている。
やがて意を決した浩介は、車を降りると、トランクを開けて、あらかじめ用意してあった直径十五センチ程の重石を五つ、寝袋の中に入れた。そうしてそれを抱え、沼に向かって歩き出した。
森に囲まれた、舗装されていない道を歩きながら、五色沼の中で、最初にその姿を現した柳沼を視界に捉えると、辺りに注意を配りながら、浩介は歩調を速めた。
沼の近くで典子を下ろし、少し息を整え、もう一度周囲に目を配ると、再び持ち上げて、雑草を踏み越えて更に沼に近付いた。
「あばよ」
あらん限りの力を振り絞り、沼に向かってそれを放り投げた。水面を打つ音が辺りに響き渡り、水が跳ね上がった。そして典子を入れた大きな袋は、泡を浮き立たせながらあっという間に、沼の底に沈んでいった。
浩介はそれをすっかり見届けた後、また人の気配に注意を向けながら、道を引き返して、やがて車に戻った。
両腕が少し痺れたようになっているが、もはやそんな痛みなど気にもならない。安堵感で満たされ始めていたその心地は、信じられないほどに爽快で、これが殺人というものなのか、憎い女を殺すというのは、こうも気持ちがいいものなのかと、煙草に火を点けながら、一人微笑んでは笑い声を上げた。
やがて典子のアパートに戻るためにエンジンをかけると、そのまま車を走らせ、来た道を再び戻り始めた。
その間、浩介はラジオをつけた。
高揚している浩介を鼓舞するかのように、軽快な音楽が車内に流れ、彼はハンドルを握りながら、指先でリズムを刻む。
しかし、桧原湖を過ぎた辺りであろうか、突然音楽が止まって、雑音が紛れ込んだ。
浩介はボリュームを上げ下げしつつ、他局の番組を聴こうとチャンネルを回したが、一向に雑音が治まらなかった。
舌打ちをしながらラジオをニ、三度拳で叩いた後、電源を切り、CDを掛けようとダッシュボードに手を伸ばしかけたその時、人影が道路に飛び出してきた。
浩介は声を上げる間もなく、慌ててハンドルを切ると、車はタイヤをすり減らしながら道から逸れて行き、そのまま路肩を飛び越えて大木に激突した。