冷たい記憶(2)
男の家は吉祥寺にあった。貴美子が倒れていたのは、井の頭公園付近だったが、やはりあの日に起こった出来事と関係していることは、これで明白になったといえるだろう。 貴美子は、駅から最寄の有料駐車場に車を停めて、五日市街道を歩いた。 しばらく進んだ先に、望が言っていたコンビニエンスストアがあった。 その角を曲がると、百メートルほど歩いたその先に、十階建のマンションが見えた。 オートロックの玄関の前で、貴美子は望から聞いた部屋番号を思い出す。 「・・・1005号室」 何の躊躇もせず、部屋番号を押したが、その手は微かに震え、表情は強張っていた。しかし、もう後戻りはしたくない。とにかく、全てをはっきりさせたいという、強い思いに突き動かされていた。 しばらくすると、男の声が応対した。 その声を聞いて、貴美子はすぐに、それが山下であることを悟った。 「・・・私です・・・田端貴美子です」 一瞬口篭ったかに聞こえたが、 「やっぱりね。まあいい。入ってくれ」 と言うと、入り口の扉が開いた。 エレベータで十階に上がると、山下の部屋を訪ねた。 「久しぶりだね」 こう言って迎えた山下は、色黒の顔に白い歯をのぞかせて笑顔を見せたが、貴美子は無表情のまま、そのあからさまな笑顔を一瞥しただけだった。 緊張した面持ちで、落ち着きなく、また注意深く辺りに目を配りながら、部屋に上がり込んだ。 「何か飲むかい?」 貴美子は、何か、汚らわしいものでも見るかのように、険悪の色を隠そうともしない、その視線を山下に向けた。 「いいえ、飲み物は結構です。それより話してくれませんか?私との間に何があったのですか?私はなぜあそこで倒れていたのですか?あの日何があったのですか?何かご存知なのでしょう?教えて下さい」 まるで堰を切ったかのように言葉が突いて出て、それは自分でも驚くほどだった。 山下は、目の前のソファに座り込んで、煙草に火を点けた。 「君は、煙草が嫌いだったよね」 独り言のようにこう呟くと、煙草の煙を吸い込んで、それを見せびらかすかのように、ゆっくりと吐き出した。 「話してもいいんだけど、約束してくれないかい」 「何をですか?」 「誰にも口外しないということを。・・・いや、君が、誰かに話をするというのは、まず考えられないな。でも、僕は正直、万が一のことを考えて、ハラハラしてたんだよ。君が記憶を取り戻した結果、どういうことになるか、想像出来なかったから。望ちゃんには何度か会っていたけど、僕は納得していなかったからね」 「話して下さい」 山下は、煙草を灰皿に押し付けて火を消すと、背もたれに体をあずけて、腕を組んだ。 その表情が急に真剣なものになったのを貴美子は見逃さなかった。 「そもそも、僕が、望ちゃんが通っていた、塾の講師をしていたことから、全てが始まったんだ。通い始めたのは、ちょうど小学校に上がって、すぐだったな。僕は、当時、君の家の近所に住んでいたこともあって、何度も望ちゃんを君の自宅に送り届けていた。その内、君と親しくなった」 貴美子は、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。山下の言っていることが嘘だったとしても、その先は聞きたくない。 しかし、恐らく、その話は、偽りでも何でもないのだろう。 「このことは、望ちゃんも全部知ってるんだよ」 泣き出したい気持ちを抑えながら、貴美子はただ黙って山下の目を見た。 「そうして、僕と君は逢瀬を繰り返した。週に何度も逢った。たまに、望ちゃんを連れて、遊園地にも行ったよ。僕と君は、愛し合っていたんだ。二年間、ずっとそうやって付き合っていた。ところが・・・」 山下は突然、腕を組んだまま、足元に目を落とした。口元を強く結んで、険しい表情になり、深い溜息をニ、三度洩らすと、再び煙草に火を点けた。 「ところが・・・何ですか?」 貴美子はいつのまにか、少し身を乗り出していた。 「僕のところに、突然、女が現れてね。君と付き合い始めた頃、僕には女がいたんだよ。あの頃、君にも話したし、君はそれに納得して僕と付き合っていたわけだから、今更責められないよ。僕はしつこく付きまとっていたあの女を、とにかく遠ざけたかった。だから、君の家の近くだった、あのアパートを引き払って、ここに移ったんだ。仕事場も、違う塾に変えた。そうしてしばらく、また君との楽しい日々が続いていたんだ」 山下は煙草の火を消すと、再び話し始めた。 「ところが・・・女の執念てやつは恐ろしいもので、どうやって調べたのか、僕の居所を突き止めた。それだけじゃない。あの女は、僕と付き合っているのが君だってことまで、調べ上げていたんだ。彼女は、相当プライドの高い女だったからね。僕に未練があったというよりも、僕に捨てられたという事実を認めたくなかったに違いない。しかも、その相手が人妻である君だということを知って、ますます頭に血が上ったんだろう。本当のところはどうだかな。いずれにしても、あいつはしつこかった。君と別れなければ、何もかもぶちまけてやると言われたんだよ。ああそうかい、と僕は言った。やれるものならやってみろ、とね」 貴美子は、いつの間にか、山下の顔から視線を落として、彼の手を、瞬きもせずに、じっと見つめている。 「すると、彼女は突然怒りだしてね。一旦キレると、見境なく暴れ出す女だった。実はね、君もその場にいたんだよ。ちょうど、隣の部屋にね。望ちゃんも一緒だったんだ」 山下はここで、貴美子が話を聞いていないのではないかと思った。というのも、彼女がただ黙したまま、じっと 、彼の手を見つめていたからだ。 しかし、山下は続けた。 「あいつはそれに気付いた。君がベッドに横になっているのを。僕は必死に、あいつを取り押さえた。僕は君に逃げろと言ったが、君は起き上がるなり服を着て、僕に加勢してくれた。なぜなら、あいつは刃物を持っていたからだ。そう、僕も君も必死だった。僕は、あいつの顔を殴った。ちょうどこの場所で、何度も何度も。あいつは顔中を血だらけにして仰向けに倒れたまま、唸り続けていた。そして、僕は・・・」 「あの女の首に・・・その手をかけたのね」 と言ったのは貴美子だった。 山下は、目を丸くして貴美子を見やった。貴美子の頬が僅かに引きつって、体中が小刻みに震え出した。 「そうだよ。君の言う通りだ。僕はあの女の首を絞めた。もがき苦しむ姿を、君はじっと見ていたんだ。その先も、もう思い出しただろう?」 貴美子は何も言わなかった。 「そう・・・あいつは事切れたというわけだ」 貴美子は気が遠くなりそうだった。 こんなこと・・・全部作り話であって欲しい・・・。頭を抱えた貴美子を見ながら、山下は尚も続けた。 「で、その後が問題だった。死体の処理をするのは、たやすいことじゃない。僕と君はあいつを、あの浴室でバラバラにした。時間が経つのも忘れるぐらい、僕たちはあの女の体を、せっせと切り刻んでいたんだ」 頭を抱えたままの貴美子を見ながら、山下は続けた。 「それから、君は望ちゃんを連れて、旦那が帰るまでに、家に戻る必要があった。そして僕はすぐにここを出て、富士の樹海まで、あの厄介なやつを埋めに、車で運んだ」 あの女を殺して、バラバラにした。私は望を連れて家を出た。そして・・・。 貴美子は、山下の話し声が、徐々に遠のいていくのを感じながらも、当時の記憶が鮮明に蘇ってきて、まるで映し出された映像を見るかのように、その光景を、目の当たりにしていた。 「君は望ちゃんと井の頭公園を歩いている最中、激しい興奮状態にあって、気が動転していたせいか、気分が悪いと言い出した。旦那が早く帰宅した場合の対応を言い含めて、望ちゃんを先に帰らせた後、君はしばらく公園にいて体調が回復するのを待っていたんだろう。でも結局、どうやら君は、倒れてしまった。あれはさすがに、僕も予期していなかった出来事だったよ」 貴美子は、頭が混乱してどうにかなりそうだった。 「思い出したわ。全てを・・・」 空の一点を凝視したまま、瞬きしない目を大きく見開いたまま、貴美子は震える声音で呟いた。 「思い出した・・・。思い出してわかったわ・・・。あなたが最後に話したことが真実ではないということを」 「えっ?」 山下は驚きの声を上げた。 「どういうことだい。僕は何も嘘は言ってない。望ちゃんに聞いてみるといい」 それを聞いて貴美子は首を振った。 「・・・仕方ないわ。あなたはただ、知らないだけなんですもの。あなたの知らないことを、私が思い出したのよ」 貴美子はそう呟くと、おもむろに立ち上がり、部屋を出て行こうとした。 山下は咄嗟に制止した。 「何処へ行く?まさか、今更警察に行って自首しようだなんて思ってるんじゃないだろうね」 「もう一度行きたいの。あの、倒れていた場所へ」 貴美子は部屋を出ると、山下もその後を追うようにして表に出た。 エレベータで一階に下り、五日市街道に出ると、井の頭公園に向かって歩き出した。 日も落ちかけ、間もなく夕闇が迫ろうかとする時刻。長閑な公園の雰囲気を楽しもうとする若いカップルが、公園に向かって歩いている。 その人垣の中に混じって、二人は歩き続けた。 やがて、公園の入り口に差し掛かろうとする、その手前を、先に歩いていた貴美子が、左折した。 周辺は閑静な住宅街で、人通りも殆ど疎らである。 しばらくの間公園に沿って歩いていると、入り組んだ細い路地に差し掛かった。 貴美子はその先を進むと、ある地点で歩みを止めた。 公園から触手のように伸びている大きな樹木の枝が影を作っているその薄暗い場所で、貴美子が何か思いを巡らし始めたのを、山下は悟った。 山下の家を出て、私は望を連れてこの辺りまで来た。そして・・・。 貴美子は望の手を引っ張りながら、五日市街道沿いを歩いて、タクシーを拾おうと何度か背後を振り返った。 しかし空車のタクシーが見当たらず、仕方なく井の頭線の電車に乗ろうと、公園に向かって歩き出した。 ちょうど公園のそばまで来た時に、突然めまいに襲われた。 直接手を下したのは山下に違いないが、私は彼と一緒にあの女の死体をバラバラにしてしまったのだ。 一気に疲労が体を蝕んで、足取りが急に重くなり、体がだるくなった。 これから私はどうなってしまうのだろう。このまま闇に葬られて欲しい。何もかも、すべて。 殺人が露見して捕まるぐらいだったら、苦しみながらでも、その犯した罪を密かに背負ってあの人と生きていくほうがいい。 このまま・・・闇に葬られて欲しい・・・。 貴美子は、思わず額を押さえ、苦しそうな声音で望に話しかけた。 「望・・・待って・・・少し気分が悪いの。ちょっと待っててくれる・・・?」 気分が回復するのを待とうと、貴美子は一旦立ち止まった。 もう、歩けない。 ああ、私は本当にどうなってしまうのだろう。 貴美子は、事の重大さに改めて直面して、頭がどうにかなりそうだった。 その激しいめまいは、視界に入る物全てが彼女の周りをぐるぐる回っているように感じられて、立つことさえ困難になっていた。 貴美子は、座り込んだまま娘の手を握っていた。が、突然、望はその手を振り払った。 苦悶に満ちた表情を見上げたそこに、望が母親を見下ろしているのがわかった。 「・・・どうしたの・・・?」 この質問に、望は冷ややかに答えた。 「お父さんに言いつけちゃうから」 貴美子は愕然として望を見た。 「・・・何ですって」 頭の中で、銅鑼のようなけたたましい音が鳴り響き、その振動で脳味噌が激しく揺さぶられたような感覚に陥った。 その痛みがみるみる広がって、貴美子は思わずうずくまり、苦悶の声を上げた。 望は、そんな母親の苦しむ姿を見下ろしながら、妙に落ち着いた声音でこう言い放った。 「お父さんに言いつけちゃうから。それが嫌だったら、このままお母さんも死ねばいいのよ」 貴美子は頭の中が真っ白になっていくのを感じた。 何を言ってるの?・・・どうしてそんなことを・・・。 「そうすれば望だけがお兄ちゃんと仲良く出来るから。だからお母さんもこのまま死ねばいいのよ」 貴美子は、胸を掻き毟った。苦しい。苦しい・・・。 痛みがますます激しくなった。その場にうつ伏せに倒れた貴美子は、ぼんやりと、その遠のいていく意識の彼方に、背を向けた望が歩き去って行くのを、最後に見た。 山下と別れた貴美子は、車に乗って自宅に戻った。 あれだけ記憶を取り戻したいと願っていたにもかかわらず、結局得られたものは何だったのか? 取り戻せたものなど何もない。ますます私は、多くのものを失ってしまったのだ。 夫の康晴はまだ戻っていなかった。 貴美子は階段を見上げ、二階の部屋にいるはずの娘に声を掛けた。 「・・・望。ちょっと下りて来て」 しばらくすると、階段を下りて来る、小さな足音が聞こえてきた。 「おかえりなさい」 望は、貴美子の様子を窺うかのように、その険しい表情を覗き見ると、母親の射るような眼差しを目にして、可笑しそうに微笑んだ。 「どうしたの?お母さん?」 「望・・・あなたあの日・・・」 貴美子が何かを言いかけた時、望は、ふん、と軽くあしらうような言葉を口にして、顔を背けた。 言いようのない怒りが込み上げてくるのを感じたが、それを押し留めなければいけなかった。 なぜならちょうどその時、夫の康晴が帰宅したからだ。 貴美子は、憎々しい色を湛えた表情を浮かべながら、二階に駆け上がって行く望を見つめていた。 「・・・おかえりなさい」 自分の帰りを迎えてくれた妻の声が、いつもと少し違うことに気付いた康晴は、ひょっとすると、と一抹の期待を持った。 が、素っ気無くキッチンに入って行く姿を目にして、その喜びが一瞬にして引いていくのを感じた。 「今夜は、少し様子が違うね?」 キッチンを覗き込んでこう尋ねた夫に、いいえ、と答えた。 そしてキッチンから離れていく夫に向かって、貴美子はこう言ってやりたかった。 何食わぬ顔をして、いつも澄ましていたあなた。浮気者のあなた。 スーツの内ポケットに入っていた、あのスカーフ。 偶然、それが夫の上着の、内ポケットに入っていたのを見つけてしまった、あの日。 そして不審を抱いてこっそり見た夫の携帯電話には、見知らぬ女との愛を交し合ったメールの数々。 見知らぬ女と抱き合って映っていた画像も、一体どのくらい保存されていたことか・・・。 私が山下と関係を結んだのも、元はといえば、あなたの浮気が原因だったのよ・・・。 ネクタイを緩め、寛ぎと安堵の溜息を洩らす夫の声を耳にしながら、貴美子は唇を強く噛んだ。 その時、貴美子の携帯電話が鳴った。 「おい。電話だよ」 夫が、ソファの上に置きっぱなしだったバッグを手に、キッチンに入って来た。それは三回鳴った後、止んだ。 「・・・いいえ。メールのようです」 夫は広間に戻り、再びスーツを脱ぎ出した。貴美子はバッグから携帯電話を取り出して、受信メールを開いた。 望からだった。そこにはこうあった。 「てんぷした画像は望がとったのよ。わからなかったでしょ?それと、お母さんがむかしつかってた携帯電話はね、望がかくしてあるの。この画像も、携帯電話も、だれかに見られたらこまるでしょ?望にヘンなことしたら、すぐに言いつけちゃうから」 貴美子は震える手で添付画像を開いた。 女の死体を切り刻む貴美子の姿が映っていた。 戻る HOME |
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