冷たい記憶(1)

 

 寝室のカーテンの隙間から差し込む日差しを受けて、貴美子は思わず顔を背けた。陽射しの眩さは、閉塞した貴美子の感情を揺さぶるだけのもので少しも有難いものではない。いつもと変わらぬ朝なのに、日を追って彼女の気持ちはますます落ち着かないものになっていた。
 彼女が記憶を失くしてから、今日でちょうど一年目になる。自分が何処の誰なのか、それを完全に思い出せないまま、一年もの月日が流れた。今、ベッドの上で眠っている夫は、結婚して九年目ということらしいが、到底信じられないでいる。一年間、共に過ごしてきた貴美子にとって、夫の康晴はまだ他人のようであった。顔も名前も知らない男を突きつけられて、「この方があなたの夫ですよ」と担当医から告げられた、あの瞬間から始まった夫婦生活は、失った記憶を呼び戻してくれるどころか、一向に満たされない空虚感を抱えたまま、ただ月日は過ぎて行くばかりだった。
「おはよう」
目を擦りながら、上半身を起こして、カーテンの裾を掴んだまま立ち竦んでいる妻に、康晴が声を掛けた。
屈託のない笑顔は清々しく、その声には張りがあって、快活な響きを帯びているが、貴美子はまだ馴染めないでいる。
「おはようございます」
貴美子は振り返り様、伏目がちに夫を見てこう挨拶し、寝室を出ると、隣室で寝ている娘を起こして、一階に下りて行った。
その後を目で追っていた康晴は、小さく溜息を洩らし、ベッドから起き上がった。
妻の様子は、いつまで経っても変わらないままで、いまだに夫として認めてくれてないかのようだ。諦念の思いが湧き上がると、すぐにそれを否定して、何とか昔の妻に戻って欲しいと強く願うばかりだが、現実はそうはうまくいかないものだ。妻にとっては、同じ屋根の下に住んでいるのは他人以外の何者でもないはずで、そう考えると、少なからず苛立ちと焦りの気持ちが先行して自棄になりそうになる。袋小路に入り込んだまま、もう記憶は戻らないのではないか、夫であることを認めないまま終わってしまうのではないかとさえ思えてしまう。
いや・・・そんなことはない。そんなことを考えてはいけない。
康晴は、呪縛のように脳内を侵食し始める最悪の結果を振り払おうと、寝癖のついた髪の毛を掻き毟り、階段を下りながら、妻の名前を呼んだ。
貴美子はちょうど浴室に入ろうとしているところだった。
「呼びましたか?」
貴美子は浴室に入り、扉を閉じようとしていたところで夫に尋ねた。
「いや・・・何でもない」
康晴は、出来得る限り明るい調子で答える努力を惜しまなかったが、その声はどこか上ずっている。明け透けで人懐っこい性格だった貴美子は、かつて一度たりとも敬語など使ったためしがなかったと思い返す。
それが、記憶を失ってからというもの、用心深くなって何かと詮索したがり、また口数も極端に減った。会話をする時でさえ決して目を合わせようとはしない。目を見るにしても、それは遠くの、何処か別の場所を見ているかのように、視点が全く定まっていないのだった。
 貴美子の後に康晴がシャワーを浴びた後、夫婦は広間の食卓についた。
ここでも、ただ黙々と食べ続けるのは毎朝のことで、全く話しかけてこない貴美子をちらちら横目にしながら、夫は悲しい気持ちが込み上げてくるのを感じていた。
その時、十歳の娘の望が二階から下りてきた。変わらないのは望だけだ、と康晴は思うのと同時に、妙に救われた気分になるのだった。
最も懸念していたことといえば、人が変わってしまった母親を、望が受け入れられるかどうかだったが、
その心配は無用だったことがわかった。記憶を失くしたた母親に対して、疎遠になるどころか、子供ながらにその心痛を理解しているのかどうか、うろたえたことなど一度もなかった。
 食事を終え、望が食卓につく頃、康晴は出勤のため、いつものように七時に家を出た。
「お父さんとお話できた?」
望が貴美子にこう尋ねてきたが、彼女はただ力なく微笑んで、それに答えるのが精一杯だった。
「ごめんね。望に心配ばかりかけちゃって」
「ううん、いいの。早く思い出そうとしなくても大丈夫だよ、お母さん」
これは望が毎日口にする言葉だった。
早く思い出そうとしなくても大丈夫だよ。
無理にそうすることはないよ、ということを言いたいのだろうが、いつまでもそんなことを言ってられない。
だいたい、この子が私の娘?
貴美子は夫の康晴と同様に、娘の望に対しても心を開けないままだった。
顔は似ているけれど、とても私の産んだ娘とは思えない。
貴美子は特に、娘のことを考えると、頭がどうにかなりそうだった。母親らしく接したい気持ちはあるにはあるが、心底から自分の娘だとは思えないという、疑心暗鬼になって苛む日々の繰り返しで、少しも進展しないまま、こうして一年が過ぎ去ってしまった。
「じゃあお母さん、行ってくるね」
赤いランドセルを背負った望が、学校へ行こうとするところへ、貴美子は玄関まで見送り、いってらっしゃい、と声を掛けた。
娘が出て行った後、ドアを小さく開けて、その僅かな隙間から外を覗いた。
背中のランドセルを揺らしながら駆けて行く、娘の後ろ姿を見送る貴美子の顔は青白く、ぼんやりとした視線の先には、何ものも捉えていないかのようだった。
その僅かに開いたドアの向こうに立つ、貴美子の姿に気付いた近隣の恰幅のいい婦人が、おはようございます、と挨拶してきたが、彼女は思わずドアを閉めてしまった。
あの婦人のことも思い出せない。きっと昔は仲が良かったのかもしれないけれど、今はただ恐いだけ。
何もかもが恐い。貴美子は、外出することを恐れていた。
知らない人間に突然声を掛けられたり、肩を叩かれたりすることも嫌でたまらなかったが、ああやって気前良くにこやかに挨拶をしてくる人たちは、すっかり様子が変わってしまった自分を見て、本当は心の中で嘲笑っているのではないだろうか。そう考えるだけで、とても恐ろしかったのである。
以前は、電話に出ることも出来なかった。しかし、電話だけは出てくれと、夫から度々注意を受けていたので、半年前から応対出来るようにはなった。しかし、それが事の始まりだった。そしてそれが、貴美子にとっての、本当の、恐怖の始まりだった。
貴美子は、広間のソファに腰を下ろすと、部屋の隅の、木製の台に置かれている電話機を、じっと見つめていた。
三ヶ月前、ちょうどこの時間に、一本の電話がかかってきた。
「いいかい。誰が尋ねてきても出なくてもいい。でも、電話だけは出るようにしてくれ」
という康晴の言葉を思い起こしながら、受話器を握った、全ての始まりだったあの日のことを、貴美子は一生忘れないだろう。
「もしもし」
貴美子はやや汗ばんだ手で受話器を握り締めてはこう言った。
それは、聞き覚えのない男の声だった。
「貴美子。・・・僕だよ。山下だ」
夫以外の男から、呼び捨てにされることなどあり得ないのはわかっていた。
しかし、その声の抑揚にはどこか親しみやすさを感じ、またすんなりと浸透していく心地良さもあって、なかなか受話器を下ろすことが出来ずにいたところを、山下と名乗った男は、更に澱みのない声で語りかけてきた。
「貴美子。本当に思い出せないのか?僕は君を愛していた。君もそうだった。そう、僕たちはずっと一緒だったからね」
それに対して何と答えていいのだろうか、と思いあぐねているところへ、男は穏やかに囁き続けた。
「思い出せないのも無理はない。だって君は記憶を失くしてしまったんだから。でも、いつかは思い出す。僕はそう信じているけど、それを望んでいないことも確かだ・・・また電話するよ」
男はそれだけ言うと電話を切ったのだった。
それが半年前だった。
それからほぼ毎日のように、男は九時頃に電話を掛けてきた。
「僕だよ。本当に君は思い出せないのか?それとも、思い出せないフリをしているだけなのか」
ある時期を境に、男の声は、いくら話しても、いくら待っても、少しも記憶を蘇らせない貴美子に憤っているのか、それとも何か他に理由でもあるのか、明らかに苛立ちを隠せない様子に変わり果てていた。
初めて電話をしてきた時に比べ、その声の調子は怒気を含んだものになっていった。
男の話によれば、貴美子と二年もの間付き合っていたというが、到底そんな話を信じられるはずがなかった。夫と娘がいながら、男と浮気していたという自分の姿など、誰が想像出来ようか。
貴美子は、いつしか、男から電話が掛かってきても、すぐに受話器を置くようになり、また夫の康晴に頼んで、ナンバーディスプレイの電話機に変えてもらい、そうすることで、知らない番号ならばすぐにわかるので、一切出ようとはしなかった。
しかし康晴には、男から掛かってきた電話のことは、一切話さなかった。
そして事が穏便に運ばれるものかと思っていた矢先の、ちょうど一週間前、男は直接、家にやって来た。
訪問客があったとしても、殆ど応対していないのは以前と変わりなかったが、ドアの向こう側に立つ人間の容姿を、確認することだけは怠っていなかった。
あの時、貴美子が覗き穴から見たのは、三十歳前後と思しき男で、背が高く、中肉中背の、やや色黒の男だった。黒色の麻のジャケットを着て、白いシャツにベージュのスラックスを穿いていた。
「僕を見てるんだろう?わかってるんだ。そこにいるんだろう。本当に僕を思い出せないとでも言うのか?いい加減に白状したらどうなんだい」
貴美子は覗き穴から顔を離すと、ゆっくり後退りして玄関を後にし、広間に入ってしばらくじっとしていた。
三十分後に再び玄関に行って確認したが、もう男の姿はなかった。
あの日以来、男は姿を現さなかったが、それが逆に貴美子にとって、何か恐ろしいものの、前兆のように感じられて仕方がなかった。いつかまた突然やって来るに違いないと考えてしまうだけで、気が動転してしまう。康晴にも相談しようかとも思ったが、なぜか、妙に引っ掛かるものがあって、言い出せないでいる自分がいた。
広間のソファに座ってじっとしながら、ふと壁に掛けてある時計に目をやった。午前九時を少し過ぎたところだ。
立ち上がり、掃除機をかけ始めるが、どうも落ち着かない。
それよりも、自分はいつになったら、全てを取り戻すことができるのだろうか。
そのことを考えるだけで、いつものことだったが、頭が鉛のように重くなる。貴美子は思わずこめかみを押さえた。
何でも良かった。夫のこと、娘のこと、そしてあの男のことを、少しでも、その記憶を取り戻すことが出来れば、闇に一筋の光が差して何もかもが明るみになるように、思い出すことが出来るに違いないと思っていた。
しかし、その日は来るのだろうか。
あれこれ考えると毎日が不安で仕方なく、いっそのこと、死んでしまった方が楽になるのではないかとさえ思えた。
ちょうど掃除機をかけ終えた時、電話が鳴った。
我に返った貴美子は、電話機に近付いて、相手を確認すると、それは望が通う小学校の番号だった。
「もしもし・・・」
貴美子は受話器を取った。
「田端さんでしょうか」
事務的な女の声が聞こえてきた。
それが担任の教師であることに、貴美子は気付いた。
「はい。田端ですが」
「今日はお嬢さんが見えてないんですが、お休みでしょうか?」
えっ・・・?貴美子はこめかみを押さえた。
「そんなはずはありません。いつもの時間に家を出たんです」
「そうですか・・・それはおかしいですね」
電話の向こうで、担任の教師が他の職員と話しているのが耳に入った。
「もしもし・・・。あの、望はまだ学校に・・・」
「ええ。来てません。何か心当たりはありませんか?」
「・・・いいえ、何も・・・思い当たりません。娘には携帯を持たせてあるので、電話を掛けてみます」
そう言って一旦電話を切った後、望の携帯電話を呼び出してみた。
すると、五回目の呼び出し音の直後に、望の声が聞こえた。
「お母さん?」
「もしもし?何をやってるの?学校はどうしたの?」
「今ね、山下のお兄ちゃんと一緒なのよ」
山下・・・?貴美子は愕然となった。
「・・・山下って・・・まさか・・・」
すると、望がしばらく無言になった。
しかしよく耳を澄ましてみると、何やら誰かと言葉を交し合っている様子が聞き取れたので、貴美子は娘の名を連呼した。
「ごめんね。すぐに学校に行くから」
「待って。山下って誰?その人を電話に出してちょうだい」
貴美子がそう言った後、すぐに男の声がした。
「僕だよ貴美子。僕だ」
貴美子は頭が真っ白になった。そして、眉間に皺を寄せると、こめかみを押さえてその場に座り込んだ。
「・・・娘に何をしようっていうんですか?」
山下は突然笑い出した。
「何もしやしないさ。勘違いしてる。冷や冷やしてるのは僕の方なんだ。でも、何度か望ちゃんに話を聞いて納得したよ。安心した。どうやら君は、本当に記憶を失ったままなんだな」
男の言っている意味がわからなかった。
「・・・とにかく・・・娘を早く・・・学校へ行かせて下さい。娘には危害を加えないで下さい」
「何を言ってるんだ・・・まあ、君は何も思い出せないから仕方ないか。望ちゃんが僕と仲良しだったってことも、君は忘れてしまったようだね。安心してくれ。これから、すぐに学校へ行かせるよ」
ここで電話は切れた。

  葬り去られた遠い昔の記憶を別にすれば、貴美子の脳裏に最初に焼き付けられたのは、夜の街の情景を、真っ赤に照らし出していた赤色灯だった。
担架に乗せられ運ばれたのは救急病棟で、彼女はそこで、三日間昏睡状態にあった。
目を覚ました時、傍らでは、康晴が目を瞬かせて、まじまじと貴美子を見るなり、担当医に妻の意識が戻ったことを告げに、廊下を駆けて行った。
彼が夫であることなど、その時は知る由もなかったが、やがて姿を見せた医師に、
「この方があなたの夫ですよ」
と告げられた時の衝撃は、何よりも貴美子を動揺させた。つまり、その一言で、自分の記憶が、全て消し去られていたことを悟ったからだ。
康晴は、悲観的な態度など決して見せなかったが、心の奥底ではきっと、嘆き悲しんでいるのだろうということを、おぼろげながら察してはいたが、彼が夫であることを認めたくとも、認められない自分がいる限り、何を言ったらいいのか、見当もつかなかった。
そしてそもそも、なぜこんなことになってしまったのか。
それすらも、わからなかった。
「吉祥寺の、井の頭公園の近くで、君が倒れているところを、通行した人が発見したんだ」
と康晴は言った。
あの、おぼろげながらに記憶に焼き付いている赤色灯は、そこから病院へと私を運んだ、救急車のものだったのかと、この時初めて理解したが、なぜ自分がそんな場所にいたのか、そして自分の身に何が起こったのか、何もかも思い出すことが出来ずにいた。
外傷はなかった。争った形跡もない。薬を服用していたわけでもない。それなのになぜ・・・。
「明らかに、心因性によるものでしょう」
と医師は告げた。康晴は、貴美子の長い髪の毛を優しく撫でながら、すぐに思い出すさ、と囁いたが、それに対しては必ずしも賛同していない様子だった医師は、のちに夫にこう告げた。
「何らかの、精神的なショックが引き金になったことは間違いありません。
つまり記憶を呼び覚ますということは、その辛い出来事までをも蘇らせます。リスクの大きいことですよ」
夫によれば、貴美子が過去に、精神的な病を患って、入院や通院をしたことなど一度もないとのことだった。
つまり、夫にも心当たりがないのだ。
一体、私の身に何が起こったというの・・・。
この疑問は、一年間貴美子を悩ませ続け、永遠に解かれることはないのでは、と絶望的になり、自分の殻に閉じ篭る日々が続いた。退院してから家に戻っても、何も思い出せることはなかった。
お母さん、としきりに呼びかける娘の望を、疎ましく思うことさえあった。記憶の糸を辿って、どんな些細なことでも思い出そうと躍起になったが全て無に帰した。
全てはあの日だった。あの日、貴美子は何処にいて、何をしていたのか。それさえわかれば、全てがはっきりするかもしれないと思い始めていたが、夫の康晴に言わせると、あの日貴美子は、何処にも出掛ける予定がなく、あったとしても、事前に必ず夫に伝えていたという。
その日の朝も、いつもと変わりなく出勤する夫を送り出していた。
「それが、私が家に帰ると、君はいなかった。当時はいつものことだったが、午後十一時頃に私は帰宅した。車は駐車場にあった。家の様子も普段と何ら変わりなかった。望はもう眠っていた。私はまず、君の携帯電話を呼び出した。しかし、電源が入っていなかった。それから、君の両親や友達の家に、片っ端から電話を掛けようとしたところへ、病院から電話があったんだよ。望は、九時頃に眠ったと言っている。その時君は家にいたらしい。つまり、午後九時から、私が帰宅する十一時の間に、何かがあったんだ」
と、かつて病室で夫はこう語っていた。
「もうひとつ、気になることといえば、君の携帯電話だ。もうとっくに解約したけど、結局見つからなかったんだ」
貴美子にも、そのことが気に掛かっていた。
そのことと、あの山下という男の存在が、何か関係しているようでならなかった。
その山下が、朝の登校時に望を掴まえて、一体何を聞き出したというのだろうか。とにかく、そのことが知りたくて、居ても立っても居られなかった。
  貴美子は、望を迎えに行くため、車に乗って学校に向かった。ちょうど下校していく小学生の列が、
校門から続々と出てくるところだった。
それから十五分位経ってから、白いセーターを着た娘の姿を見つけた。
貴美子は運転席から出ると、望に声を掛け、助手席に座らせた。
「・・・これから質問することに答えてね」
車を走らせるのと同時に、貴美子はやや落ち着きのない声でこう言った。望は、真っ直ぐ前を向いたまま返事をしない。
「山下って誰なの?どうしてあの男の人を知ってるの?」
前方に注意を向けつつ、時折望の顔を横目で見ながら尋ねたが、一言も喋ろうとはしない。
自宅から数十メートル離れた駐車場に車を停めて、望の手を握り締めながら家に戻って、そこでも貴美子は同じ質問を穏やかに繰り返した。
「ねえ。教えて。あの男の人は誰なの?」
望をソファに座らせ、貴美子はその前に跪いた。
じっと娘の表情を覗き込み、反応を確かめたが、一向に読み取れない。
「どうして言えないの?お母さんだって、思い出したいことが沢山あるのよ。だから、望が知ってること全部教えて。これ以上、お母さんを困らせないで」
望は、上目遣いで、母親の困惑しきった表情をちらっと見ると、俯いて口を閉ざしてしまった。
「・・・なぜ言えないの?教えて。教えてくれないと、お母さんはいつまでたっても、思い出せないのよ」
懸命に、哀願に近い声音で語りかける貴美子の表情を、再び上目遣いで見た望は、ぼそっと言葉を発した。
「えっ?今何て言ったの?」
「お母さんが思い出しちゃうから」
貴美子は、言葉に詰まった。それはどういう意味なのだろうか?いずれにせよ、とにかく聞き出さなければ話は進まない。
「どういうことなの?」
望は、少し間を置いてから、小さく頷いた。
「話して。一体何なの?」
「お兄ちゃんは、お母さんとずっと仲良しだった人なの。望の塾の先生だったのよ」
「塾の先生・・・?」
「うん。すごくいい人で優しい人だったし、家に何回も来たことがあったけど、お母さんがお兄ちゃんの家に行ったこともあったの。望も何回も行ったことがあって、お母さんもお兄ちゃんも、お父さんには絶対教えちゃ駄目だよって、言ってた」
その話しぶりから、娘がいかに、山下を気に入っていたかということを、窺い知ることが出来たような気がした。
貴美子は、体の力が一気に抜け落ちていくのを感じた。危惧していたことが、やはり現実だったと気付いたものの、もはや過去の自分を責め苛んでばかりはいられない。
「それで・・・お兄ちゃんは何か言ってた?お母さんのことで」
「ううん。ただ、本当に忘れちゃってるのかどうか、望に訊きたかったんだって。全部忘れてれば、もういいんだって。でも、いつか思い出すかもしれないから・・・そうしたら、また来るかもしれないって言ってた」
「全部?・・・全部って、それは何のこと?」
望は何も言わなかった。
山下との間に、一体何があったというのか。ある程度のことはわかったとはいえ、それでも貴美子は、何も思い出すことが出来なかった。
しかし、このままじっとしていては何も始まらない。いつまでも、記憶喪失のままでいることなど出来ない。「ねえ。その、山下さんの家って、何処にあるか憶えてる?」
望は、無言のまま、小さな手のひらをじっと見つめているだけだったが、しばらくすると首を縦に振って、うん、と答えた。